TOPに戻る
前のページ 次のページ

第三幕「少女と仮面」


「くそっ! だから言わんこっちゃない!」
 もうもうと湧き上がる砂埃の中から、一人の少年が全力で走り出してくるのが見えた。あれは確か、高崎総一と一緒にいた友人の一人だったはずだ。
 駐車場とは逆側の、臨海公園から一歩外に出た道路。公園に横付けするように止められた乗用車の中。学生服に身を包んだ少年は焦りに堪えきれず、車の中から出ようと扉に手をかける。
 しかし、ドアへと伸びたその腕は運転席に座っていたスーツの男によってしっかりと掴まれた。
 少年は信じられないものを見るかのように隣に座っている男の顔を睨み付けると、男に向かって怒鳴るように言った。
「まだ……まだダメだって言うんですか、鹿島さん!」
 鹿島と呼ばれた黒いスーツの男は、無言で少年の手を引いた。少年は力を失うように再びシートに腰を落とす。
 総一たちが東京タワーから出てくるのを、近くのビルから監視をしていたのと同じ二人組だった。どこにでもあるような黒い乗用車の中、学生服に身を包んだ少年は外に出ようとした事を止められた不満を隠そうともせず、鹿島を睨んだ。
 公園に残っていた人間は、さっき走っていた少年と高崎総一で最後だったはずだ。
 あの砂煙の原因となった一撃、そして走って逃げていった少年を見れば、高崎総一がどうなったのかは自然と想像が付く。それは、鹿野にも分かっているはずなのに――
「駄目だ。彼ならば問題はない。すでに『彼女』が配置に付いていると言っただろう。作戦は問題なく継続中だ……見ろ」
 鹿島の言葉に少年が再び窓の外へ目を向ける。
 晴れてきた砂煙の向こうに、『巨人』の腕と紙一重の場所に腰を落とした総一と――それを後ろから引っ張ったのだろう――総一の腕を掴んで立ち尽くす長い黒髪の少女が見えた。
「くっ……!」
 少年の顔はそれを見ても晴れることはない。
 自分の一撃を避けられたと知って、『巨人』は再びもぞりと動き出すのが見えた。今はまだ海から陸に上がって間もないせいで動きが緩慢だが、陸になじんでしまえばそれも終わりだ。
 今、危険を知って駐車場に逃げた者たちはいい。総一を見捨てて逃げ出すことを人道的にとやかく言わなければ、一刻も早くバスでここから立ち去ればいいのだ。それだけで生き延びることができる。
 しかし、公園周りに交通規制をかけたとはいえ、それはこの芝浦埠頭全域から人がいなくなったというわけではないのだ。
 ここから近い海岸周辺には未だ復興の最中や、新しく建設している途中のビルも多い。それらの作業のためにいる人々がそこには大勢存在するのだ。
「俺が行きます、鹿島さん。ここまで見せたんだ、高崎総一には後から事情を説明して協力を仰げばいい。何も、今ここで『仮面』を被せて実戦なんてやらせなくても、機会は後でいくらでもあります。ここはもしもの事態を最優先で考えるべきです!」
 少年の口調は強かった。意志に満ちた瞳が鹿島を強く見つめている。
 しかしそれでも、鹿島は少年の腕を放さない。むしろギリギリと音がするほどより強く握り締められ、少年は痛みに顔をしかめる。
 表情の変わらない顔は意思が読み取れない。だが、震えるほど強く握り締められた腕から伝わる痛みは、鹿野の感情の見えない起伏を伝えているように思える。
「もし、本当にいざという時になったらそうすればいい。だが、まだ駄目だ。何度も言わせるな、今の状況は作戦として全く問題ない。今はただ座っていることだけが、お前にできる唯一の仕事だ」
「ぐっ」
 少年は痛みにではなく、行き場の失った自分の気持ちを吐き出すように呻く。
 車のドアに拳を叩きつけたい衝動を必死で押さえつけた。怒りに任せて、そんな大人気ない行動をとることは少年のプライドが許さなかった。何もできない状況にも、我慢するしかなかった。
 少年も窓の外に目を向ける。黒髪の少女が高崎総一の手を引いて、少年と鹿島の乗った車とは逆の方向へ走り出すところだった。
 後を追うように『巨人』も動き出す。ゆらゆらと粘体のように揺らめいていたシルエットは、しっかりとした固体へと安定し、その足取りも淀みないものに変わってきたように見える。
 総一たちを追う速度も、彼らの全力疾走には及ばないまでも、さっきまでとは段違いに速い。
 きっと、後十分も経たずに、あの『巨人』は本来の動きを取り戻すだろう。そうなれば逃げている二人はおしまいだ。
 作戦の目的を健気に守ろうとしているのだろう。黒髪の少女はは人目を避けるように、駐車場とは全く離れた公園の奥へと続く道を海側に沿って走っていく。
 少女が少年の視界から消えた時、少年は鹿島の腕を振り払った。
「綾人!」
 鹿島が咎めるような声を上げる。
 開け放った車のドアから体を半分出したところで、少年――白城綾人は振り返る。
「民間人はもう全員避難した、作戦には何も支障がない。お前が出て行く必要もない。……戻れ、これは命令だ」
 鹿島と綾人の視線が交差したのは、ほんの一秒ほどだった。綾人はちらりと『巨人』の方を気にするように後ろを見やると、
「すぐに割って入るようなことはしませんよ。ここから見えなくなったら、どうしようもなった時のフォローにも困るでしょう? 見ているだけです、それ以上の手出しはしません、約束します」
 鹿島は厳しい顔を崩さなかったが、先ほどのように無理に止めるようなことは無かった。綾人はそれを黙認と受け取ったのか、完全に車の外に出る。
 車の扉を閉めるその時、綾人は鹿島の目をまっすぐ見て言った。
「それから、これだけは言っておきます。これから彼がどうなろうとも、高崎総一はまだ、ただの民間人です」

   ●

「はっ……はっ……! ちょ、ちょっと待て!」
 先ほどまでの芝生の生えた広い場所から離れ、総一と黒髪の少女は左右を背の高い木で挟まれた道を走っていた。
 まるで森の中のように作られたそこは、おそらく新鮮な空気の中で森林浴などが楽しめるように作られた場所なのだろう。
 だがあいにく、総一にはそんなものを楽しむ余裕は一切無かった。目の前の少女は、自分の手を引いて走り出してから全く振り向かないし、そもそも走っている速度がかなり速い。
 運動神経は悪くないつもりの総一だったが、今は付いていくのがやっとと言う感じだ。
 『巨人』の方を振り返ると、この道は『巨人』にとって肩幅ぎりぎりぐらいだったらしく、歩きづらそうにうごめいているのが見えた。距離が大分開いたのを確認した総一は、自分の手を引いて走る少女の手を振り解く。

 数分前、気が付いた自分の目の前には巨大な金属の球体があった。
 それが『巨人』の拳だという事を理解するのにも多少の時間がかかった。正樹に受け答えをしていたときは正気に戻ったつもりだったが、今日の自分はどうも絶望的なまでに呆けているらしい。
 しかも、自分は地面に尻餅を付いた状態で、片腕は見知らぬ少女に引かれていた。状況から察するに、自分は危ないところで彼女に助けられたようだ。
 『付いてきてください』とだけ言ってそのまま強引に腕を引く少女。周りを見渡す限り他の生徒や教師たちは全員逃げた後のようだし、総一には少女に付いていく他に選択肢など無かった。情けなさで涙が出る思いだ。

「こっちじゃなくて、駐車場の方に走った方がいいんじゃないか? もしかしたら、俺たちの乗ってきたバスが待っててくれてるかもしれないし、少しでも人がいる方へ行った方がいいだろ?」
 少女は黙って、『巨人』の様子を見るように総一の後ろに目を向けた。
 総一は改めて、その黒髪の少女を見る。走っていた時から気になっていた腰にまで届く長い黒髪は、前から見るときっちりと切り揃えられた前髪と相まって整然とした印象を与える。
 感情の無い切れ長の目と、すっと通った鼻。どこを見ても驚くほど整った顔立ちの少女だった。
 着ているものは、質素なシャツの上に黒のセーター、脚にフィットするようなジーパン。肩からはグレーのトートバッグを下げており、全体的に地味で事務的な姿が、少女の無感動な印象を色濃くしているように見えた。
 いきなり走ったせいもあって、膝に手を付いて肩で息をする総一。
 帰宅部とはいえそこまで運動不足ではなかったつもりだが、汗一つかかずに涼しい顔で佇む目の前の少女を見ると再び情けなさが込み上げてきた。
 少女は総一に目を下ろすと、
「ここから駐車場に行くには、またあの広場まで戻らなければいけません。道いっぱいになりながらこっちに向かってくるアレを避けてそこまで行く自信があるのなら、戻ってみたらどうですか?」
 その口調は少女の無表情そのままのように抑揚が無かったが、総一にはなぜか怒っているような響きが含まれているように感じた。
 少女の外見は、一つ二つ年下には見えても年上には見えない。腕を振り払った時にどこか痛めたのだろうか。それとも、いきなりのタメ口が癇に障ったのだろうか。  
 少女の迫力に、そんなことを聞いている場合ではないと思っていても、総一は聞かずにはいれなかった。
「あの……なんか怒ってます?」
 体制的に、少女の顔を見上げるような形になる。自然に出てしまった敬語でまるでお伺いを立てるかのように問えば、返ってきた言葉はぞっとするほど平坦な言葉だった。
「……『怒ってます?』じゃありません」
 丁寧な口調とは裏腹に、見下ろす瞳は静かな怒りを湛えていた。
 先ほどと全く変わらない無表情。しかし、だからこそあふれ出る感情があるのだと総一は微妙に身を震わせながら悟った。
「まさか、自殺志願者を連れて回らなければならないとは思いませんでした。あんなにボケッとされてしまったら、こちらでカバーできるものもできません。……全く、さっきは流石に肝が冷えました。どうしたら未知の物体を前にああも馬鹿面ぶら下げていられるのか……任務で来てるこっちの身にもなって欲しいです」
 なんだか、さり気なくとてつもなく失礼なことを言われたような気がするが、それよりも総一には日常にはとんと縁のない、聞きなれない単語の方が気になった。
「任務?」
 まるで、映画や漫画の中の話。冗談を言うでもない今の状況で、自分よりも年下に見える少女の口から出る言葉とはとても思えない。
 その時、ベキベキィという音に、はっとしたように総一は振り返った。
 身の回りにある邪魔な木を振り払うように、『巨人』が両腕を広げて振り回しているところだった。十本以上の木々が、『巨人』を中心にドミノ倒しのようにへし折れて倒れていく。
 自分の周りがすっきりしたことに満足したように、『巨人』は腕を一回軽く振り回した後、再び総一たちに向けて歩き出した。その足取りは先ほどよりも、さらに速くなっているようだ。
 総一は思い出した。映画や漫画どころの話ではない。現実に今、自分の目の前には有り得ないはずの現実があまりにも近くまで迫ってきているのだ。
 自分で振り払った手をまた取るのは気まずい思いもあったが、総一は黒髪の少女の手を取ると再び走り出すためにその手を引こうとする。
「話は後回しにした方が良さそうだ。さっき、ここからじゃあ駐車場に行けないって言ってたな。だったら、どこに逃げようとしてたんだ?」
 しかし、総一が手を引いても少女はそこを動こうとする気配が無い。ただ、総一を感情の無い、冷たい視線で見つめるだけ。
「何してるんだ、逃げようとしてたんだろ? 俺のせいで立ち止まってたのも、さっきの言い方も俺が悪かったよ。だから、意地張ってないでさっさと行こう! あの調子じゃ、早くしないとすぐに追いつかれるぞ!」
 総一の呼びかけに答えるように、少女は再び口を開いた。
 先ほどのような冷たい怒りも感じさせない、本当にただの無表情で。
「あなたが、勘違いしていることが三つあります」
「なに?」
「まず、私は意地を張っているのではありません。これが一つ目」
 そう言って、少女は指を一本立てる。道に立つ木をなぎ倒しながら、どんどん『巨人』が迫ってきていると言うのに、少女の口調はまだ余裕があるかのように抑揚が無い。
「第二に、私は今どこに行こうともしていません。どこかに行こうとしていた、と言えばそうですが、その必要はなくなりましたから」
 二本目の指を立てる。
「私の目的地はここです。まぁ、人の目に付かなければどこでもよかったのですが……。そうそう、それから三つ目の勘違いです。私は逃げようとしていたのではありません。ここに来たのは、あなたにアレと戦ってもらうためです。高崎総一さん」
 三本目の指が立てられた時、少女の瞳が冷たく光った気がした。氷塊のような、水晶のような、底なしに冷たく、しかし不気味に美しい瞳。
 その言葉はまるで死刑宣告のようだと、総一は思った。


(戦う? 誰が? 何とだって?)
 もう二十メートルも離れていない場所に立っている『巨人』に総一は目を向ける。その巨体と長い腕のリーチを考えれば、今立っている位置だってすぐに安全とは言い切れなくなるだろう。
 さっき目の前にあった巨大な鉄球のような腕。それが再び自分に襲い掛かることを想像し、総一はぞっとした。全身が鳥肌立ち、背筋を嫌な汗が流れる。
 アレと戦う。いや、アレと面と向かって立つことすら、考えられない。それ以前の問題だ。
「な、なんでそんな話になるんだ! そんな事できるわけ無いだろ。それこそ自殺志願者じゃないか。馬鹿なこと言ってないで、早く逃げよう!」
 逃げよう逃げようと臆病とも思えるセリフを吐きながらも、総一は少女を置いて逃げることは全く考えていなかった。いや、考えられなかったのだ。
 得体の知れない、正体も分からない少女でも、またそれをしてしまうことは絶対にできないと、自分の中の何かが叫んでいた。
 手を強引に引く。少女は少しよろめきながらも、その勢いに任せることはしない。
「そちらに逃げても行き止まりですよ。いえ、正確にはこの道の先には、海の見える小さい休憩所があるのですが、それだけです。そこからはどこへも行くことはできません」
「なら、海に飛び込めばいい! 泳いで陸沿いに逃げれば――」
 しかし少女は、総一の言葉を遮るように割って言う。
「あの『巨人』がどこから上がってきたのか見ていなかったのですか? 海に逃げても同じです。ここまできたら、どこにも逃げることは不可能ですよ」
 自分のセリフの意味が分かって言っているのか、と総一は思った。それは自分から袋小路に飛び込んだという事だ。しかも、その理由は総一にあの『巨人』と戦わせるためだという。
 馬鹿げている。イカれている。頭がどうかしているとしか思えない。そうだ、この少女は『巨人』に対する恐怖で、どこかおかしくなってしまったのではないか?
 少女は逃げようと手を引く総一と向かい合う。『巨人』に背を向けたまま格好のまま、それでも顔色一つ変えることは無い。もう『巨人』は目と鼻の先に立っていると言うのに逃げようとする気配すらない。
 少女は肩から下げていたトートバッグを手に下ろすと、中から陶器のような材質でできた何かを取り出した。
 総一には、ぱっと見でそれが何だか分からなかった。小さな白いお盆のようにも見えるそれは、表面はつるんとした曲面で、裏側の中心から少しずれた位置に黒真珠のような黒光りする球体が、半分めり込むように埋まっている。
「これは『仮面』です」
 それを総一に差し出して、少女は言った。
 反射的に受け取ってしまう総一。確かにそれは形だけ見れば、縁日の露店などで売っているお面のように見えなくも無い。まっすぐ顔の前に持ってくると、埋め込まれた黒い球体がちょうど額に当たるようになっているようだ。
 ――なぜそれを、素直に受け取ってしまったのか。
「これを付けて、『変換(コンバート)』と言ってください。そうすれば、あなたにアレを倒す力が手に入ります」
 信じられるわけが無い。ふざけているとしか思えない。これは夢か、ドッキリなのではないか。
 本当はみんな嘘で、駐車場に逃げた連中は、あのハリボテの『巨人』の後ろで動揺している自分を見てゲラゲラ笑っているのではないのか。いや、この状況自体、自分がバスの中か何かで見ている夢なんじゃないのか。総一は今更ながら、本気でそう思った。
 ――しかし、ならばなぜ、自分はその『仮面』を顔の前に持ってきているのか。
 分かっている。さっき自分の目の前にあった、あまりにも近い死の気配。それは間違いなく現実で、今の状況は少女が言ったようにどこにも逃げ場など無い。
 『巨人』とはもう十メートルほどしか離れていない。さっきの一撃を思い出せば、もういつ攻撃されてもおかしくない距離だ。
 それでも彼女が、目の前の、名前も知らぬ少女が。背後の『巨人』への恐怖を微塵も見せずに、じっと自分の目を見つめていたから。
 それは、本当にただの無表情なのかもしれない。自分が死ぬことにも無感動なだけの、頭のおかしい人間なのかもしれない。間違っても総一を信じてなどという、温かみのある行動ではないのかもしれない。
 それでも、自分が死ぬかもしれないこの状況の中で、自分を真っ直ぐ見つめていたその少女を裏切ることなんてできない。
 だから――
「まったく。これで何も起こらなかったら、ホントに怒るぞ……」
 コツンと、総一の額に黒光りする球体が当たる。
 『仮面』とは名ばかりのそれには模様や凹凸はおろか、前を見るための穴さえ開いていなかった。顔の前面を完全に覆う『仮面』のせいで、すぐそばにいるはずの『巨人』の姿も、少女の姿も何も見えない。
 まるで死んでしまったかのような闇の中で、まるで世界が自分一人だけの存在になったような感覚。

「…………『変換』――」

 そして、黒い光が総一を包み込んだ。
前のページ 次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system