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第四幕「Into the Black」


 光一つ無い闇の中とは、実は想像するよりも人間に安心を与えるものだ。
 見えない。という事はそれほど苦痛なことではない。生活するのに不便というならそうだろうが、暗所恐怖症でもなければ暗いだけで怯え戸惑うといった人間の方が少ないのではないだろうか。
 むしろ怖いのは、暗闇の中にほんの少しの光が混ざっている空間だ。
 見えないはずの闇の中に、見えるような気がする何か。不安定な視界の端々に、時々写るような気がする何か。半端に周囲が見える薄闇は、それがよく見知った自室であったとしても恐怖を感じてしまうものだ。
 正体の知れない不安は心を蝕み、その存否さえしれない不信は身を固める。
 総一の迷い込んだ空間は、たとえばそんなものだった。
(ここは……どこだ?)
 前後の記憶ははっきりしていた。少なくとも、『仮面』を付けたところまでは。
 手を伸ばすと、制服に包まれた手首の辺りまではうっすらと見える。どうやら完全な暗闇ではないようだ。
 しかし地面の感触もあやふやで、自分が今どこに足をつけているかも怪しい。身動きも取れないこの状況で、さてどうするかと総一が腕を組んだ時にそれは聞こえた。
 タッ――
 右手からいきなり聞こえてきたそれは、軽い足音のように聞こえた。反射的に振り向くと、去っていく誰かの足が見えた。子供のもののように低い位置に。
(子供?)
「なんだよ……それ」
 不意に響いた声は、総一のものではない。
 声変わり前の少年の声が真後ろから聞こえた。少年が去っていった方向へ振り向いていた総一はもう一度振り返る。姿は見えない、しかしうっすらと、そこに誰かが立っていることだけが気配として伝わってきた。
「誰だ?」
 闇に向かって問いかける。だがそこにいる誰かは、まるで総一の声など聞こえないかのように、しかし総一のいる方向に向かって声を荒らげる。
「んなわけねぇだろ! 自分が何言ってるか分かってんのかよ!」
 怒りをそのままぶつけるように叫ぶ少年の声。不可解な状況に首を傾げながらも、総一はその声にどこか覚えがあるような気がしていた。
 ずっと昔の知り合いのような、懐かしいが遠く、幼い声。
「あの人の事も、忘れちまったってのかよぉ……!」
 少年の気配が消えた。薄闇に静寂が戻ってくる。
(あの人?)
 その言葉、会話には覚えが無かった。ここがどこだかはまだ分からないが、あの森から動いていないというなら、ここは自分の内面世界のような物なのかもしれないと総一は思う。それならそれで、会話に覚えが無いというのは矛盾なのだが。
「大丈夫だよ」
 不意にまた後ろから気配がした。はっとしたように振り返る。
 しかし、今度現れたその誰かが発するのは気配だけではない。むせ返るような血の匂いが目の前から漂ってくる。
 その匂いから逃れようと顔を逸らすが、多少仰け反ったくらいでは意味が無いほどに強い。しかも、足元もおぼつかないここではこれ以上後ずさることもできなかった。
 聞こえてきた声は、覚えの無い女の声。自分と同年代か、もう少し上だろうか。姿は見えないはずなのに、何故かそれは年上の声だと総一は確信していた。
「大丈夫、君が気に負うことはないから。君が傷つくことはないから」
 聖母のよう暖かさを感じさせる声だった。その声とは対照的なおびただしい血の気配に吐きそうになり、総一は口を押さえる。
 しかし、本当に総一が逃げたかったのは血の匂いからではない。心地よさを感じるはずのその声から、総一は逃げたくて仕方なかった。吐き気さえなければ――鼻と口を押さえる必要さえなければ――今すぐにでも全力で耳を塞ぎたかった。
「……やめろ」
「私は後悔してない……から。これは、私の……わがままの結果、だから。君は、逃げ……なさい」
「やめてくれ!」
 段々と途切れ途切れになっていく女の声。
 耐え切れなくなった総一は、両手で強く耳を押さえつけた。吐くことなど気にしている余裕も無いほどに、総一は追い詰められていた。
 その続きは聞きたくない。自分は聞いていない。聞かなかったんだ。自分は逃げたのだから。そうだ、逃げ出した。だって逃げろって言うから。だから逃げた。だから聞いてない。だから悪くない。自分は悪くない。言う事を聞いただけなんだから。自分にどうしろっていうんだ。何ができた? 何もできない。何もできなかった。どうしようもなかった。逃げるしかなかった。だから俺は――――
「……生きたかった、なぁ」

 その声は、助けを求めていたはずなのに。

「やめろおぉぉ――――――!!」
 瞬間。全ての視界は閉じた。薄闇は暗闇へ。
 仕舞い込んでいた物を、より深く深く沈めるために。自分の世界を閉じた。
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