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第五幕「Happy Birthday !!」


 黒い光に包まれた高崎総一が『変わった』のは、直径三メートル弱の真っ黒でつやの無い、闇を塗り固めたような球体だった。
 森の木々の間に隠れて、少し離れた場所から一連の様子を伺っていた白城綾人は、総一の『変換』が正常に終了したことに安堵してため息を一つ吐いた。
 『変換』された姿は人によってそれぞれ違うものであっても、それは以前見た資料にあった拒絶反応の事例とは明らかに違う様子だったからだ。
 だからそれは成功なのだと、そう考えた。
 確かにその認識自体は正しいものだ。実際、高崎総一の『変換』は正常に終了していた。
 しかし、その数秒後に綾人は驚きに目を見開くことになる。なぜなら、その『正常な結果』であるモノ自体が、とてつもなく異常であったのだから。
 音が響いた。バキバキという破砕音。黒い球体が、卵の殻が割れるように音を立ててひび割れ崩れていく。
 それは孵化だと、綾人は反射的に思った。
 割れてできたひびからおびただしく溢れ出した赤黒い液体は、血ではなく胎児を包んでいた羊水。その中から空を掴むように突き出された無骨な腕には、三十センチメートルほどもある爪が生えている。
 その異様な光景にも関わらず、綾人にはその手が母を求める赤子の腕に見えた。
「ウギィャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 産声だ。
 自らの誕生に祝福と絶望を、生命に賛美と侮蔑を歌うように。それは天にも届くような産声を上げる。
 耳にしただけで気が違いそうになるその声を聞きながら、呆然と立ち尽くした綾人は思わず呟く。
「……悪魔だ」
 殻を割って完全にその姿を現した『それ』に、それほど適当な呼び名があっただろうか。
 動物の頭蓋骨のようなもので覆われた頭部からは、山羊のように捻れた角が二本、左右から突き出ている。首から下は浅黒い筋組織がむき出しで、腕や脚の末端だけが頭と同じ骨で覆われていた。
 全体的なシルエットは普通の人間とあまり変わらないが、体に対して不釣合いなほど大きい下腕部の外骨格と、そこから繋がって伸びる長い爪のせいで、まるで腕だけがだらりと垂れ下がっているようにも見える。
 そのせいで軽く猫背になったその背には、肩甲骨が生えかけの翼のように異様なほど飛び出ていて、悪魔に似た意匠をさらにそれに近づけていた。
 完全に崩れて足元に僅かに残った殻の欠片を踏み潰して、『それ』が一歩前へと進み出る。
 わずか数メートル前に立つ『巨人』を意にも介さず、真っ直ぐに『それ』が見つめていたのは目の前に立っている黒髪の少女だった。
 表情などあるはずもない頭蓋からは、まるで感情が読み取れない。
 綾人の背筋を嫌な汗が一筋流れた。
「あれは……暴走じゃないのか?」
 普通、『変換』した後に正気を失うなどという事はある筈が無いのだ。
 『変換』とはあくまで体組織を分解し、その後再構築することによって人間ではあり得ないほどの能力を持つ個体に体を『変換』すること。
 その外見や能力には『仮面』を着けた《アクター》の精神構造が直接影響されるため、『変換』された後の姿――《キャスト》の外見にはかなりの個人差が出る。
 しかしそれはあくまで姿形の話だ。使う言語や思考など、中身は『変換』前の人物と全く変わらないはずなのである。
(さっきの咆哮。あれは、まともなヤツが上げるようなものじゃなかった。もし、彼女にも危険が及ぶようならその時は……)
 緊張で全身に力が入る。握った手の中に、じんわりと伝う汗が気持ち悪い。
 順調に行ったと思ったのも束の間、『巨人』と総一の両方に気を使わなければならなくなったのだ。
 いつでも飛び出していけるようにと綾人が体勢を変えたその時、ついに『巨人』の腕が動いた。
 丸太のような銀色の腕がしっかりと持ち上げられる。完全に陸に『馴染んで』しまったその動きは、広場にいた時より格段に早い。
 約十メートルもの高さから、黒髪の少女と総一に向かって『拳』が真っ直ぐに振り下ろされた。
(クソッ……!)
 反射的に飛び出そうとしながら顔を隠すように手を当てた綾人は、その瞬間に信じられないものを見た。
 バジュッ、と。熱したフライパンに水滴を弾いた時に似た音が響く。
 一瞬の間。綾人はそれこそ食い入るように少女たちの方を見つめていたはずだった。しかし、綾人がいくら目を凝らしても、何が起こったのか分からない。
 高崎総一が変わった『それ』は、片腕を振り上げたまま静止している。
 それは『巨人』の一撃を受け止めるためだったのだろう。そこまでは綾人にも理解できた。
 しかし、『巨人』の拳と『それ』の腕がぶつかった瞬間。『巨人』の肘から弾け飛んだモノはなんだ?
 太陽の光を受けて輝きながら、宙を舞って回転している、巨大な銀色のモノはなんだ?
 『それ』は、ただ一撃を手のひらで受け止めただけだ。強く押し返すでも、長い爪で切り裂こうとしたのでもない。ただ、ゆっくりと受け止めただけのはずだ。
 鈍い音を立てて、『巨人』のやや後ろにそれは落下した。
 銀色に輝く、一メートル近い直径の球形を先端に置いた、全長三メートルほどの金属質な物体。それは紛れも無く、たった今振り下ろされたはずの『巨人』の腕に違いない。
 右の肘から先を無くした『巨人』が、空振った勢いを殺しきれずに大きくぐらつく。
(あれが……あの《キャスト》の力か)
 綾人はゆっくりと、顔の前に当てていた手を下ろす。
 不安材料は一つではなかった。《キャスト》が暴走している可能性も確かに懸念していた。その場合でも自分が出て行かなくてはと思っていた。
 しかし、もっとも危険だと考えていた状況は、その《キャスト》の能力が戦闘に向かなかった場合である。
 《アクター》の精神に深く関わっている《キャスト》の能力は、人間と同じくその外見も中身も千差万別だ。戦闘に向く能力などよりもむしろ、何の役に立つのか知れないものの方が多いのが実情。
 綾人は地面に転がった『巨人』の腕に目を向ける。その切り口は、たった今磨き上げられたナイフのようにきらめいていた。
 それがどういった行為、効果、能力によってできた結果なのかは綾人にも判別は付かなかったが、綾人はホッと一息つきながら呟いた。
「なるほど、俺たちがここまで動かされるのも納得できる……か」
 真上に振り上げられていた腕を『巨人』へと向ける『それ』。
 キュッ、と洗ったばかりの皿を磨くような音が鳴る。ちょうど『巨人』の胸の中心へと当てられた掌の中心に、小さな黒い球体が見えた。ほんの小さな、ビー玉くらいのサイズだ。
「あの《キャスト》は、確かに強力だ……」
 水が一瞬で蒸発するような音。さっき腕を切り飛ばした時と同じ音が響く。
 気が付いた時にはすでに、『巨人』の胸の中心に直径一メートルほどの穴ができていた。まるで何かでごっそりとくり抜いたような綺麗な切り口で。
 破片など欠片も無い。砕いたのではない、斬ったわけでも削ったのでも無い。それは確かに、くり抜いたとしか言いようの無い傷跡だった。
 ぐらりと、八メートル近い『巨人』が再び揺れる。前のめりに倒れそうになった『巨人』に追い討ちをかけるように、『それ』は再び腕をかざした。
 キュ――――ジュボッ!
 左肩が『無くなった』。支えを失った左腕が真っ直ぐに落下する。
 『巨人』が逆向きにバランスを崩す。上半身をぐらりぐらりと揺らしながら、脇の林の中に頭から突っ込むとバキバキと木々をなぎ倒しながらゆっくりとくず折れていく。
 あまりに圧倒的、そして呆気なく。戦いとも言えない戦いが終了していた。
 

 黒い霧のように、『それ』が頭の先から風に乗って消えていく。
 足先まで綺麗に消え去った後、残されていたのは『変換』前と何も変わらない高崎総一の姿だ。
 意識が朦朧としているのだろう、目は開いていても立っているのも危うい様子で、一・二歩歩いた後、事切れたように倒れこんだ。そこには先ほどから一歩も動いていない、黒髪の少女が立っている。
 黒髪の少女は、自分に向かって倒れてきた総一をそっと抱きとめた。表情は先ほどまでと何も変わらない、冷静沈着で何を考えているか分からない。
 そんな表情のはずなのに、総一を抱えて呟いた言葉はほのかな優しさをたたえているようで。
「まぁ、初めてにしては合格ですね。お疲れ様……高崎さん」
 膝からトスンと地面に下ろされる総一。僅かに覚醒した意識で見上げた少女の顔は、逆光で隠されながらも何故か笑っているように、総一には見えた。
「こんなところに馬鹿面下げて突っ立ってた、どこかのお嬢さんを守らなくちゃいけなかったからだろ……。俺にあんなこと言ってたんなら、さっさと逃げておけば良かったのに」
「それだけの減らず口が叩ければ大丈夫ですね。今は少し休んで――――」
 少女の声を遮って、木の折れる音が断続的に森の中から聞こえた。
 先ほど両腕を落とされ、体の中心に大穴を空けられて林の中に倒れこんでいた『巨人』。それが、倒れた時と同じように木々を押しのけながら、ゆっくりと体を起こしたのだ。
「なっ……まだ動けるのか?」
 総一は反射的に立ち上がろうと全身に力を込めるが、凄まじい疲労感のせいで体がいう事を聞かない。脚がガクガクと震えるだけで、体を持ち上げることができない。
 『巨人』の全身が淡い光を帯び始める。まるで、総一の『変換』が解けた時の逆回しのように、周りの木々が銀色の粉末の奔流となって『巨人』の周囲を漂う。
 木を自らに吸収しているのだ。欠損した箇所を埋めるように、腹に開いた穴は外側からどんどん小さくなり、腕はなくなった肩から波打つように生えてくる。
「おいおい、冗談だろう」
 一分も経たないうちに、『巨人』は元通りの姿を取り戻していた。
 体の調子を確認するように両腕をぐるりと一回転させると、総一たちの方に向き直る。
 絶望的だった。
 もう総一はほとんど体を動かすことができない。動けと念じる心だけが空しく空回りし、腕も脚もピクリともしてくれない。こんな状態で、もう一度『変換』することなど不可能だ。
 思わず総一はため息を吐いた。『巨人』が海から上がってくるのを見た時も、さっき逃げようと走っていた時も、少女に『仮面』を渡された時でさえこんな気持ちにはならなかったのに。
 自分にはもう何もできないという確信。自分がこれから死ぬという事実に、これ以上無いほど納得してしまう。
 少女を見上げると、相変わらずの無表情で『巨人』を見上げていた。さっき自分を信じてくれた少女に対して、申し訳なさがこみ上げてくる。全く情けない、結局自分がやったことは無駄だったのだから。
「おい、アンタ。期待してくれたのに悪いけど、俺はアレを倒せなかったみたいだ。もういいだろ、いい加減に逃げてくれよ。アンタだけならまだ走ってなんとかなるかもしれない」
 繋ぎ止めておくのがやっとの意識で、総一はそれだけを呟くようなか細い声で言った。自分の方を先に襲ってくれれば多少の時間稼ぎになるかもしれないなどと、淡い期待を抱いて意識の綱を手放そうとした時に、声が聞こえた。
 頭の上から、相変わらずまるで動じた風も無い、少女の声が。
「何、やり尽くした自分に酔ってるんですか、私は逃げませんよ?」
「は?」
 少女は目の前で起き上がった『巨人』などどこ吹く風といった様子で、総一を見下ろす。その視線にはどこか哀れむような色さえあった。
「私はあなたに『勝ってくれ』だの『倒してくれ』だのと言った覚えはありません。言ったはずです、私の目的は、あなたに『巨人』と戦ってもらうことだと」
「で、でもアンタさっき、『倒せる力が手に入ります』って言ってたじゃないか!」
 思わず声を荒らげる総一。
 当たり前だ。少女が言ったのはつまり、戦いさえすれば勝ち負けなど最初からどうでも良かったと、そういうことだ。じゃあ今、自分が戦っていた意味はなんだったのかと思わずにはいられなかった。
「確かに。でも、どんな強力な兵器であってもモノは使いようです。真剣を持ったばかりの素人に、いきなり虎を斬ることを期待はしませんよ。それにこれも言ったはずですが、私はあなたをカバーするためにここにいるんです。もちろん、こういう事態を全て想定した上で」
 そういうと、少女は片手をすっと上げる。真っ直ぐと伸ばした腕に、何の意味があるのかと総一が顔を上げた瞬間。
 背後の森の中から、『何か』が飛び出した。
 音も無い。目では追えない。ただ何か白いモノが目の前を通り過ぎていったことだけが、遅れてやってきた突風のおかげで理解できた。
 砂煙が舞い上がる。そこに立っていたのは身長二メートル強、『変換』した総一と同じぐらいの背丈の、白銀の甲冑に全身を包んだ《騎士》だった。
 身の丈よりも長い、三メートル以上はありそうな巨大な両刃剣を軽々と片手で持ち、総一たちを庇うように背を向けて立っている。
「そういうわけで、先程は言いそびれてしまいましたが――」
 言われるまでも無く、総一は限界だった。恥も外聞も無く、張り詰めた糸が切れるように黒髪の少女に向かって倒れこむ。少女はそれを柔らかく受け止めながら、言った。
「今は休んでください。ほんの少しの間だけ……」
 その声を聞くと同時に、総一はなんとか保っていた意識を手放した。
 まだ今日という日が、自分にとってどんな意味を持つとも知らないまま。
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