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第十三幕「非日常の足音」


 周囲の環境が大きく変わる時、いつも密やかな不安に襲われる。
 それは、変化が怖いせいだと思う。
 周囲の変化が怖いのではない。変わるのが怖いのは、自分自身。
 人間は、ずっと同じままではいられないから。
 自分自身の意志だろうと、それ以外のどうしようもないモノのせいだろうと、ずっと変わらないままでいることなど不可能だから。
 人は変わっていく。変わっていってしまう。周囲の変化に合わせて少しずつ、だが確実に何かを失って、その代わりに何かを得て、元の自分から遠ざかってしまう。
 普通はそれに気付くことなどない。少しずつ過ぎる変化はゆるやかな時間と共に流れるように進むもので、自覚することさえ困難極まるものだ。
 だからこそ、急激な変化を怖いと感じてしまう。
 その大きな変化に吊られて変わってしまう自分を、わざわざ自覚してしまうから。

 だから、ツルギのようになりたかった。
 ずっと劣化などしない、欠けもしない。美しく真っ直ぐに筋の通った。
 一点を突き刺す剣のようになりたかった。

   ●

 月曜の朝は、本当に何事もなく始まった。
 ホームルームの前にテスト勉強の足しにもなればと、英単語帳をパラパラ眺めていた総一は目の前の光景に絶句した。
「よっす、おはよう、総一」
「おはよう、高崎くん」
 まるでこの週末に大騒ぎしていたのは幻覚なのかと思うくらい、北里正樹と緑川桜子はいつも通りに二人一緒に総一に挨拶をすると、当たり前のように自分の席に着く。
「え、ああ。おはよう」
 昨日の帰りに弥生とそういう話をしてはいたが、ここまで普通に元通りだとさすがに面喰ってしまう。自分の後ろで机の中に置きっぱなしの教科書やノートを漁っている正樹を、訝しげに眺めながら挨拶を返す。
 しかし正樹は、そんな総一の様子など気にも留めない様子で雑談を切り出した。
「そうだ、さっき隣のクラスの中島からちょっと聞いたんだけど、お前今日何か聞いてる?」
「何をだよ、主語が無いとサッパリだ」
「転校生だよ転校生」
 それは、いつも通りの朝だと思った日常を大きく変えるには十分過ぎて、しかも総一にとってしてみれば待ちわびた朗報に他ならない。
「転校生? こんな時期にか」
 無意識に口元に手をやりながら、テンプレートのような返答をする。
「そうなんだよ、総一もおかしいと思うだろ? 学期末とか区切りの時期ならともかく、テスト一週間前の今なんて不自然にも程がある。しかも、この前みたいな事件のすぐ後だろ?」
 確かに、あの事件からまだ一週間ほどしか経っていない。多少テストのせいで下火になっているとはいえ、まだあの事件が皆の記憶から薄れるには時間がかかる。
 それなのにこんなイベントを持ってきてしまえば、誰かが関連性を疑ってしまうのも当然だ。
(いや、転校生と事件が関係無いなんて、少し調べれば分かることか……)
 新聞に事件が掲載された時と同じ理屈だ。いかにも怪しそうに見えるものであっても、調べる要素が無ければ調べられないのは道理。
 しかも今回は、時期以外には特に疑うべきところが元から無い、ただ転校してきただけの一生徒だ。
 あの事件と一切接点も無かったはずの学生を、身元から日ごろの行動まで探ろうとする暇人はいないだろう。
「それはちょっと考えすぎなんじゃないのか? 別にその転校生に怪しいところがあったりするわけじゃないんだろ?」
 試しに噂に否定的な意見を言ってみると、正樹は「まぁそうなんだけどな」と笑いながら、意外に簡単に引き下がった。
「俺だって中島に『うちの担任と見慣れない生徒が話しているのを見た』って聞いただけだしな、事件と関係とかは俺がここまで来る途中でアイツとそういう話してたってだけ」
 そう言って、顎でしゃくるように桜子の方を指す。
 総一が自分の隣の席をちらりと見ると、そこでは自分たちと同じように桜子が後ろの席の弥生に転校生の噂を話しているところだった。
(本当に仲直りしたんだな)
 あまりにも元通り過ぎるのも不自然に感じたが、それに今突っ込むことはせずに転校生の話題を続ける。
「その転校生、男か女かは分かってるのか?」
「ああ、男だって。まぁ、その辺は俺には関係ないけどな。……どうした、残念そうな顔してるぞ? ひょっとして、可愛い女の子でも入ってくるのを期待してたとかかぁ?」
 ニヤつきながら正樹に言われて、総一は思わず口元を隠した。
「そんな顔……してたか?」
「してたしてた。しかし意外でびっくりしたぜ。総一がそんなマンガみたいな出会い期待してたなんてさ」
「いや、そんなんじゃないんだけど……」
 からかうような正樹の言葉を反射的に否定して、いや、と総一は思い直す。
 そんなんだったのだ。きっと、頭の中のどこかで期待していた。
 最初に、異形となり異形と戦う手段を持って自分と接触した、あの少女がまたやってくるのではないのかと。また自分の手を引いて、非現実のような世界へ自分を運んでくれるのではないのか、と。
 あの少女の顔がフラッシュバックのように脳裏をよぎる。
 切れ長の眼と腰まで届く黒い長髪、無表情の中に秘めた強い感情を感じさせる彼女の姿は、一緒にいたのはほんの短い時間、言葉など二・三言しか交わしていないにも拘らず、総一の心に深く焼き付いていた。
「おいおい、そんな真剣な顔で悩まなくてもいいだろ。まぁ、俺だって少しはそういう想像しないこともないけどさ、冗談だって冗談」
「あ、ああ」
 あまりにも深刻な顔をしていたのだろう。正樹の慌てたようなフォローに、総一はなんとか普段通りの表情を装って返事を返す。
 そこまで言ったところで、都合のいいタイミングで担任の若い男性教師が教室へ入ってきた。生徒たちはバラバラと自分の席へ戻り、総一も話を中断して前へ向き直る。
「よーし、全員席に着いたか。今日はホームルームを始める前にお前たちに新しいクラスメイトを紹介しておく」
 途端に教室内がざわめき始めた。総一たちのように前もって情報を聞いていたわけではない生徒たちにとっては、まさに寝耳に水の話だ。
「うるせーお前ら! 次の授業まで時間ないんだから静かにしとけ!」
 担任教師はざわめきが収まるのを待ってから、廊下に向かって「入っていいぞー」と呼びかける。
 すぐに扉が開き、件の転校生が姿を見せた。
 利発そうな顔立ちに落ち着いた雰囲気で端正な顔立ちをした、薄い茶髪の少年である。
 後ろの席から「あっ」という小さい声が聞こえるが、総一は口元に当てた手を動かせないままそれを無視して、じっと前を見続けていた。
 無意識に浮かんでしまう笑みを周りから隠すために。
 担任教師が黒板に自分の名前を書き終わるのを待って、教壇の横に立った少年は口を開く。
「私立開城高校から転入することになりました、白城綾人です。趣味は読書と剣道で、前の学校では剣道部に所属していました。親戚の都合なのでこんな変わった時期の転入となりましたが、これから同じクラスの数ヶ月間、よろしくお願いします」
 無難な挨拶の後に、さっと一礼する。簡潔だがメリハリのある動きは、ピンと張った弦を連想させた。
「じゃあ、白城はその列の一番後ろに座ってくれ。今日はまだ教科書が届いてないだろうから、周りのやつが見せてやれよー」
 総一は綾人の顔をじっと見つめ続けていたが、綾人はそんな視線などどこ吹く風といった風に真っ直ぐに席へ歩いて腰を下ろす。総一の方には不自然なほど目線すら向けない。
 さっそく周囲の生徒たちが綾人に質問を投げかけ始めて教室全体がざわついてくると、担任教師は手をパンパンと二回叩いて、
「じゃあホームルームはこれで終わりにするが、お前ら授業の準備ちゃんとしとけよ!」と叫んで教室から出て行った。
 次の瞬間、行動を起こしたのは総一にとって意外な人物だった。
 ガタッという音に振り向いたとき、彼は前のめりに綾人の席に向かって歩を進めていた。綾人の机の前に立ち、正面から見据える。
「久しぶりだな、白城。俺のこと、覚えてるか?」
 北里正樹が、そう言った。


「正樹がアイツと知り合いだったなんて、知らなかったよ」
 その日の放課後、いつものように正樹と並んで教室を出た総一は軽く背後を見ながら、一日中気になっていたことをやっと問うことができた。
 教室の中央後ろ寄りの席には、未だに数人の生徒に囲まれ質問攻めを受けている綾人の姿が見える。
 彼と正樹が知人同士だったことは、総一にとって意外以外の何でも無い。
 自己紹介のすぐ後に親しげに話し始めた二人は、その後も昼休みに正樹が学校を案内するなど親密になりそうなイベントをこなしていた。明日にでも桜子や弥生を交えて歓談し、グループに引き入れそうな空気さえある。
 今日だけではそこまでの話にはならなかったようだが、総一は事前に聞かずにはいられなかった。
「あいつ……って、白城のことか?」
 総一の視線を追って一瞬だけ後ろを確認すると、正樹は大して気にした風もなく歩を進めながら話し始める。
「中学時代に、俺が剣道部だったってのは話したっけ?」
「ああ、家の件で中学までで辞めたって話だろ?」
「そうそう、それそれ」
 総一は『家の件』と言った時に気にするかと正樹の顔を伺ったが、正樹はそのまま話を続けた。
「結局止めちまったんだけどな、中学の時はそりゃあもうハマってたってくらい練習してて、それなりに俺も強かったわけよ。それこそ、県大会とかに普通に出ちゃうくらい」
 そこまでの話は初耳だったが、総一は大して驚きはしなかった。
 目の前にいる友人の180センチ近くある身体は、ひょろりと伸びているわけでもなく全体的にがっしりしているし、それに応じて腕も長い。体育などでしか彼が運動しているところを見たことが無い総一でも、彼の運動能力がそれなりに高いことは知っている。
「それで?」
「そこであいつがいたわけよ」
 やれやれと、呆れたかのように肩を竦めて手の平を上に向けた手を上げる。
 何も知らない人間なら、その仕草に違和感を覚えただろう。
 170センチほどしかない標準体型の総一と、綾人の見た目はそう変わらない。
 剣道をよく知る人間なら――いや、良く知らない人間でも分かるだろうが、あのような武道においてリーチの差はそのまま有利に繋がる。
 実力に大した開きが無ければ、リーチに大きく差がある人間に勝つことは難しい。ましてや、何年も前から今まで引っ張るほど印象的な展開など起こりようが無いだろう。
 しかし、残念ながら総一は『何も知らない』わけではない。
 総一の頭に、《キャスト》として戦った時の鋭い剣戟、相手の死角に素早く入り込む機動、圧倒的に『戦い慣れている』人間の動きが思い起こされる。
「そこで、白城にボッコボコにやられた……とか?」
 瞬間、正樹は心底驚いたような眼で総一の顔を見下ろす。
「そう……だけど、良く分かったな」
 しまった、と総一は思った。
 自分と白城綾人はもちろん面識など無い。今日が初対面で、当たり前だがお互いのことなど何一つ知らない。そういう事でなくてはおかしいのだ。
 今、正樹は綾人が『県大会の場にいた』ということしか言っていない。白城綾人が剣道をしているということさえ知らないはずの総一が、勘でものを言ったにしては察しが良いにも程があるだろう。
「もしかして総一、白城と知り合いか何かなのか?」
「あー……ああ、そんなとこ」
 とっさにそう答えてしまったが、動揺を隠しきれたとは思えない。
 どうしたものかと総一が口元の辺りを撫でた時、タイミング良く後ろから声がかかった。
「おーい! あたしを置いていかないでよね!」
 背中にかかるポニーテールを大きく揺らしながら駆けてきた桜子が、正樹の横に追い着くなりそう文句を漏らす。
「え、お前部活があったんじゃないのか?」
 正樹がそちらへ顔を向け話し始めたのを見て、総一は二人には隠れてそっと胸を撫で下ろした。
「なーに言ってるの。アンタまたテストのこと忘れてるんじゃないでしょうね? テスト一週間前は部活禁止! 剣道部やってたんだし覚えてるでしょ?」
「あー…うん、すっかり忘れてた。テストを」
「このバカッ!」
 正樹の後ろ頭を引っぱたく桜子。微妙な疎外感を感じつつも、それを振り払うように苦笑いを浮かべつつ総一が尋ねる。
「じゃあ、君塚はどうしたんだ? 部活とかやってなかったと思ったけど、一緒じゃないのか?」
「あ、うん。なんか図書館寄ってくから先帰っててくれって。待つって言ったんだけど、今日久しぶりにお父さんが帰ってくるとかで色々買い物しながら帰るらしいのよ」
「はー、そういや君塚って父親との二人暮らしだっけか。ほとんど家事全部自分でやってるんだろ? 偉いよなー」
「本人にとってはもう普通のことになってるらしいけどね。前に、『家事は趣味みたいなもの』って言ってたこともあったし」
「それでも、勉強とかの時間と別に炊事洗濯なんて俺には考えられないね。成績だってどっちかって言えばいい方だろ?」
「帰宅部なのに下から数えた方が早い誰かさんには、爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだな」
「おいおい、そりゃちょっとキツくないか、総一……」
 他愛もない話を繰り返しながら歩く廊下は、やはり何事も無いいつも通りの放課後だった。
 下駄箱で靴を履き換え外に出る。正樹と桜子は自転車を取りに駐輪場へ向かってしまったため、校門に寄り掛かって二人を待つ。
 総一は、ほっと息を吐きだした。
 それは安堵ではなく失意であることも、彼は自覚していた。
 それほどすぐに何かがあると思っていたわけではない。ここ一週間ほどの毎日の密度を考えれば、『白城綾人の転校』という事件があっただけで今日は十分に彼を非日常へ近づけたと言える。
 それでも、さらに何かあると期待してしまったのだ。
 無意識に顔を撫でる。あの感触が恋しくて、いつの間にか癖になってしまったこの行動も『力』への渇望の表れだろう。
 きっと、『仮面』を出してしまったら―――自在に出せることを確認してしまったら、自分は自分を抑えきれなくなるだろうという恐れがあった。
 自室でさえ『仮面』を出すことさえしてみなかったのは、家族や友人などに露見するのが怖かったからでは無い。それをしてしまったら、『変換』までせずにはいられなかっただろうから。あの『力』を実感できる姿に変わらずにはいられなかっただろうからだ。
 カラカラという音に顔を上げると、正樹と桜子が自転車を押しながら近づいてきている。
 いつもなら正樹と二人で駅まで歩いているのだが、不安定な気分のせいもあってか元以上に仲良さげなこの二人と一緒に帰るのは気が引けてしまった。
「あのさ―――」
「ちょっといいかな?」
 二人が自転車だと歩道で邪魔になるから、という自分でも上手く思いついた理由を述べようとしたところに水を差され、総一は一瞬それが誰の声だか忘れていた。
「俺、ちょっと高崎に用があるんだ。二人とも自転車なんだったらそっちの方が早く帰れるだろうし、ちょっと今日は借りてってもいいかな?」
 振り向いて総一が真っ先に思ったことは、やっぱりコイツには笑顔なんて似合わないということ。
 総一たち三人と付かず離れずの距離を置いて、なんとも芝居臭いセリフと爽やかな笑顔を貼り付けた白城綾人が立っていた。
 突然の登場にどう反応していいか考えていた総一より先に、正樹がそれに答える。
「まぁ別にいいけど……。なんだ、やっぱりお前ら知り合いだったのかよ」
「バイト先が一緒なんだ。そういうことだから、また明日」
 総一が答えあぐねた問いさえ簡単にあしらって、綾人は正樹と桜子に軽く手を振った。
 二人は総一とも挨拶だけ交わすと、自転車に跨って走り去って行く。それを見届けて綾人が振り返ると、口元に張り付いていた外行きのような笑顔は跡形もなく消えていた。
「じゃあ、少し歩こうか。高崎……」
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