TOPに戻る
前のページ 次のページ

第十五幕「ようこそ、君が望んだ世界へ(1)」


「俺の一存で、今すぐに『組織』に連れていくというわけにもいかない。その時になったらこちらから連絡を取る。それまでは今まで通りに生活していてくれ」
 と、綾人に言われてから早一週間が過ぎようとしていた。
 毎日教室で顔を合わせるにも関わらず、『連絡を取る』なんて大仰な言い回しにまた吹き出しそうになったのを思い出し、総一は自室で机に突っ伏した。開いたノートの安っぽい紙の感触。
 そう、ノートだ。
 総一はうんざりしながら顔を上げた。目の前には書きかけの数式がいくつも並んでいる。
「……まぁ、なにはともあれ、か」
 ため息とともに誰にともなく呟く。
 綾人とあれだけの問答をした後に認めるのは少々癪だったが、この一週間、綾人――『組織』からの呼び出しが総一に無かったのは、正直なところありがたかった。
 なぜなら、今は相も変わらず試験前だからである。
 明日から始まる中間試験。できれば、それが終わってから――来週の週明けくらいにしてくれると嬉しいなぁ、などと総一は思う。
 断わっておくと、総一は成績の悪い方では決してない。テストの順位はいつも少しだけ上から数えた方が早いくらいで、多少勉強しなかったからといって、よっぽどのことが無ければ赤点など取るはずもない。
 少なくとも、背が高く明るく染めた髪を突っ立てた、気のいい某友人に比べればテストの心配などする必要はない……はずだった。
 やはり、『組織』やこれからのことが気になるのか、いつも通りに集中できないのだ。
 高校二年の中期中間。来年に受験を控える身としては少しでもいい成績を残さなければならないと頭では分かっているのだが、どうにも上手くいかないものだ。
 翌日、教室に入って自分の席の方を見やると、案の定、件の友人は頭を抱えて机にうずくまっていた。
「おはよう正樹。今回も調子悪そうだな」
 総一が声をかけると、のっそりと顔を上げた正樹は挨拶に返しもせず、鬼気迫る口調で言う。
「総一……。人生において、微分なんて何の必要もない。そう思わないか?」
「……はぁ?」
 いきなりの、あまりにもな問いに何と答えたものかと考えていると、右隣から、
「まーた始まったよ、コイツは……」
「ねー」
 と、呆れた声と笑い混じりの声が飛んできた。
 しかし、そんなものは全く気にせず、正樹はしゃべり続ける。
「お前の今までの人生の中で、こんな良く分からない定理やら公式やらが必要になったことがあったか? お前の父ちゃん母ちゃんが、『困ったわー、今微分がとっても必要なのに……』とか嘆いてる場面に出くわしたことがあるか? いや、無い! 有り得ない!」
 段々と自分の中で盛り上がってきたのか、正樹は上を向いて感極まったように拳を握り締める。立ち上がらんばかりの勢いだ。
「高崎君、ごめんねー。コイツ、いつもの発作だから」
「いやいや大丈夫、分かってるから」
 などと目の前でやりとりされる会話も気にも留めない。
「つーまーり! 大人になってこの先何十年と生きていこうと、こんな数式が必要になることは無い! よって、勉強する必要も無いのだ。そうだろ?」
 妙な自信たっぷりに――どこか必死にも見える――言う正樹に、総一は冷たく言い放った。
「これから全く使わなくても、今必要ならやらなきゃダメだろ」
「でーすーよーねー……」
 空気の抜けた風船のように、へなへなと机に倒れこむ。
「っていうか、なんでアンタ勉強してないのよ。昨日普通に日曜だったでしょうが」
 隣からかかる桜子の声に、正樹は首だけを動かして答える。
「いやー、俺だって遊んでたわけじゃーないんだって。ただ、その……ちょっと『仕事』がさ……」
 ばつが悪そうにそっぽを向く。それを聞いて、桜子は眉をしかめながらため息を吐いた。
「テスト前なんだから、どうにかならなかったの?」
「言ってみたんだけどな、どうしてもって頼まれちまってさ」
「もう……進学しないからって、進級できなかったらどうするつもりなのよ」
 半分同情、半分呆れた様子で会話を続ける桜子に、事態がいまいち飲み込めていない弥生が後ろから会話に割り込んできた。
「え、北里君ってバイトとかしてたの? 初耳ー」
 聞かれた正樹は、今弥生の存在に気づいたように慌てて、
「あ、ああ、まぁそんなもんだ」
 と強引にその話を打ち切った。
 北里正樹の家は、それなりに老舗の和菓子店を経営している。
 彼の曾祖父の代から代々続いているという店は、父親の代で店内でも飲食できるように増築され、休日ともなればそれなりに混み合うらしい。総一が実際に見たことはないが、桜子の弁によると何度か雑誌で紹介されたこともあるそうだ。
 そのため、正樹もたまに店の手伝いに駆り出されている。さらに言えば、店を継ぐための修行のようなことまでしているらしいのだ。さっき桜子が口にした、進学しないというのはそういう意味である。
 しかし正樹は、あまりそのことを人に話したがらない。総一も耳にしているあたり、そこまで神経質に秘密にしているわけでもないようなのだが、先ほど弥生に知られるのを嫌がったように、どうも恥ずかしいものと思っている節がある。
 それが和菓子屋そのものなのか、親の跡を継いで就職するということなのかは総一には分からなかったが。
 話題を変えようとする正樹に合わせて、総一はふと思いついたことを口にした。
「そういえば、勉強ならあいつに聞いてみればいいんじゃないのか?」
 視線と顎で指し示したのは、他のクラスメイトと同様にノートに目を走らせている白城綾人だ。
「え、アイツ頭いいの?」
「そりゃあそうだよ」
 正樹の問いに答えたのは、総一ではなく弥生だった。
「自己紹介の時に言ってたじゃない。白城君が前にいた開城高校って、都立でも有数の進学校だよ。……っていうか、北里君なんで知らないの?」
「いやー、俺、受験の時偏差値上の方の学校とかハナっから見てなかったから……」
 照れたように頭をかくと、「よし」とつぶやいて立ち上がる。
「今からでも遅くない! ヤマだけでも聞いてくるぜ!」
 そこまで頭のいいヤツならヤマなんか張らないだろうと総一は思ったが、水を差すのは止めておいた。
 かくして、急いたように正樹が綾人に話しかけるのと、教室のドアが開いて担任の教師が顔を出したのはほとんど同時だった。
 目に見えるほど肩を落として自分の席に戻った正樹は、いつもより二回りは小さく見えたという。

 テスト終了後、正樹は「さすがに今日は勉強します」と生気の無い顔で呟いて、早々と教室を出て行った。
 桜子もそれに付き添うような形で帰ってしまった。なんだかんだ言って面倒を見るつもりなのだろう。甲斐甲斐しいことだ。
 ちらと眼を向けてみると、綾人の姿もいつの間にか無かった。
 いつもなら、正樹たちと昼食でもとりながら翌日の試験勉強や今日の分の自己採点などをするところなのだが、今日はおとなしく帰って机に向かうしかないようだ。
 そう思って総一が腰を上げた時、傍らから声がかかった。先ほどから席を外していた弥生である。
「高崎君、なんか話があるっていう女の子が来てるけど?」
「女の子?」
 訝しげに眉根を寄せて総一が聞くと、弥生はどこか含みのある笑みを浮かべていた。大方、恋愛関係の何かだと邪推されているのだろう。
 全く見に覚えの無いという様子の総一に、弥生はジェスチャー交じりで説明する。
「うん、一年生だと思うよ。桜ちゃんくらい長い黒髪のキレイな子なんだけど、心当たりない?」
 このぐらいのー、と腰の後ろ辺りに手をやる弥生の姿は、もう総一の目には入っていなかった。
 心当たり――あるに決まっている。
 驚きに目を見開いて教室の入り口に目を向けると、相変わらずの無表情で彼女が立っていた。
 雪野透花。
 総一に『仮面』を手渡し、彼が日常から外れるきっかけを作った張本人。
 その透花が、霞ヶ丘高校の制服に身を包んで自分を呼んでいる。
 総一の胸が、ドキンと音を立てて痛むほど高鳴った。
「どうしたの、高崎君?」
 その様子に不穏なものを感じたのか、弥生が心配するような響きで声をかける。
 我に返ったように、総一は取り繕いの言葉を探した。
「あ、ああ、大丈夫。……そう、バイトで一緒の子なんだ。ありがとう」
 前に綾人が使った言い訳で何とか誤魔化す。
 手早く荷物をまとめると、軽く手を上げて弥生の方も見ずに早口で、
「じゃあ、俺も帰るよ。また明日な、君塚!」とだけ言って小走りで去っていってしまった。
「あ、高崎君?」
 彼らしからぬ妙に弾んだ声に、弥生は反射的に呼び止める。
 しかし、その声は総一に届かなかったのか、彼は振り返ることもせずに教室から姿を消した。
 まるで、未練など欠片も無い、日常を振り払うように。
前のページ 次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system