第二十幕「Into the Black(2) -Dread-」
覚えのある薄闇は、むせかえるほどの血臭に満ちていた。
ここに踏み込むのもこれで三度目、それ自体には大して動じた様子もなく辺りを見回した総一は、不快も露わに顔をしかめる。
「……ッ。この、臭い……」
周囲は相変わらず黒一色。まるで視力を失ってしまったかのように、視界には何も映らない。
だというのに、総一は血煙を連想させる赤い明滅を目の前に感じずにはいられなかった。
息を吸うたびに押し寄せる、直接血をすすったように濃厚な鉄の味。背筋を襲う悪寒に全身が鳥肌立ち、しかし背中には嫌な汗が流れ出て止まらない。堪え切れない吐き気に、思わず総一は口元を押さえた。
そうだ、その動作にさえ既視感がある。これはまるで、最初に『変換』した時の焼き直しだ。
あの、夥しく血を滴らせた女性。血の臭いだけではない、彼女を見た時と同じ雰囲気が、総一を内からも蝕んでいる。
(一体……なんなんだ、これは)
前に『変換』した時――鹿島の執務室では、こんなことにはならなかった。闇の中にいる時間もずっと少なく、むしろ力に包み込まれる安らぎに満たされて『変われ』たはずだった。
ならば、これはなんだ。この苦しみに意味はあるのか。『変換』の過程として意味のないものなのならば、自分が蝕まれていることにこそ理由があるのか? なんのために? 誰が?
(誰が、だって?)
ここが自分の精神に関係する場所だとするなら、それに当てはまるのは自分ではないのか?
そこまで考えたところで、総一は膝から倒れこんでしまった。
頭がうまく回らない。体内にじんわりと染み込む血の毒と、内から湧き上がってくる『何か』が、ゆっくりと総一の身体を黒に染める。周囲の闇と、一体化させようとするかのように。
「酷い顔だね。そんなにして忘れたいの? 私のこと」
ふいに後ろから響いた声は、あの、見知らぬ女性の声だった。
振り返って見なくても分かる。あの時と同じ声、どこか見覚えのある、見知らぬはずの年上の女性。
「また逃げ出すの? そうして、思い出を真っ黒に染め直して」
女性の腕が、倒れた総一の首へするりと巻きついてくる。死人のように冷たく青白い腕は、薄闇の中で発光しているかのようにぼんやりと、その姿を浮かび上がらせた。
背中へ柔らかく伸しかかる重みは幻想などではない。目の前に立っていただけのこの前より、ずっと近くに女性の存在を感じ、総一は振り返るどころか顔を上げることさえできなかった。
「あんた……何だ?」
不明瞭過ぎる問い。しかし、声を出しただけでも精一杯だったのだ。
声を吐き出す代わりに体内に入り込んでくる血臭を伴った空気は、女性が現れて余計に濃度を増したようにさえ感じられる。
「何って……本当は、自分で分かってるんじゃないの?」
「何だと?」
思わず振り返りそうになった、その瞬間。目の前に何者かの気配が前触れもなく忽然と現れた。闇の中、うっすらと浮かび上がる影は二人。うずくまっている男と、それに相対して立っている男。
薄闇に紛れて、顔を窺い知ることは出来ない。
うずくまっている男が叫んだ。
『本当に申し訳なかった! 俺を許してくれ!』
聞き覚えのあるセリフだった。立っている男もそれに応じる。
『あそこで逃げ出したって、それはしょうがないことだ。俺だって同じ立場ならそうしたさ』
目の前のそれが誰なのか、考えるまでも無かった。いつ聞いた言葉なのか、思い出すまでも無かった。
それこそ、顔など見なくとも分かるに決まっている。
「なんだよ、これ……。なんでこんなのを今……」
顔を上げてくれ、という立った男の言葉にも、うずくまった男は耳を貸さない。
彼の言葉は、自分がしたことの懺悔なのだろう。他の含みなどあるわけがない。だが、立っている男にはそれを黙って聞いているのが、どうしても耐えられなかった。それが謝られるような、『悪い事』だと認めるわけにはいかなかった。
『■■がどうなったかとか、確認するのも怖くて……自分がこんなに臆病だなんて思わなかったんだ。だから――』
「くっ!」
目を逸らした総一の頬を、女性の手がするりと撫でた。
「『あの時』も、こうやって謝ればよかったのにね。忘れたりなんてしないで」
じくじくと痛む古傷のように、言葉は鈍く総一に染み込んでゆく。
「しょうがない。同じ立場になれば自分だって……誰だってそうする。そうだよね、そうとしか言えないよね。一度、したことのある人間からしたら。忘れるしかないよね。そんなことに向き合う勇気もなければ、償う資格すらないんだから」
前に自分がこの闇の中で口にしたこと。
逃げ出した。怖かったから。そうしろと言われたから。だから逃げだした。その言葉が強がりだと分かっていたのに。もう死んでしまうと分かっていたから。そうやって自分を納得させて逃げだした。
あの人はまだ、助けを求めていたはずなのに。
「……怖かったんだ」
しばしの沈黙の後、総一が声を上げた時には女の腕は肩から消えていた。目の前で問答をしていた二人の男の影も。
代わりに立っているのは、黒ずんだ筋肉線維が剥き出しの巨体。
頭蓋の左右からは捻じれた二本の角。四肢の末端――肘や膝から先は骨のような白い外骨格に包まれ、手の指の代わりに生えているのは鋭く長い頑丈そうな爪だ。
自分の《キャスト》――悪魔のようなその姿の前で、総一は一人跪いている。
「あの後にどうなったのか知らなくて、でも、それを確認することができなかった。どう考えても、いい結果が待っていることなんてあるはずないって分かってたから、それを知ってしまうのが怖かった。だから、思ったんだ。中途半端に分からないのが不安なら、全てを知らなくしてしまえばいいって」
総一は顔を上げる。女性の消失に伴い、さっきまであれほど充満していた血の臭いも、嘘のように消え失せている。
「でも、それじゃダメだったんだよな。お前は俺で、俺はお前なんだから。どう目を逸らしたって、『お前』で戦っていくならあの時のことに向き合わなきゃ。だって、あの人を殺したのは――」
手を伸ばして、『自分』に触れる。
黒い波紋を揺らして、総一の手は自らの《キャスト》の中へと吸い込まれた。
「だから、今すぐに全部は無理かもしれないけど、少しずつやっていくから。……今は力を貸してくれよ――《恐怖(ドレッド)》」
世界が割れていく音がする。『変換』の――この夢の終わりが近付いている。
一歩、前へ進みだすように。一歩、近づいてくる光から逃げだすように。総一は『自分』と重なっていった――。