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第二十五幕「Silent promise」


「高崎、聞こえるか?」
「……はい」
 その声は戦いが始まる前に聞いた時よりもどこか余裕がなく、鹿島は総一の返事もそこそこに足早に言葉を繋げる。
「『ビスク』は今どうだ?」
 聞かれて視線を上げると、水平線の彼方にいる『クレイマン』の群れのそばに、宙に浮く銀色の人型が小さく見えた。《顔無し》全体が後退しているらしく、距離にすればおよそ1キロメートルはあるだろうか。
「もうほとんど見えません。他の《顔無し》に紛れてしまって……」
「そうか、なら沢村睦月の安否を確認しろ。大至急で、だ。操縦室後部にハッチがある。『変換』を解除すれば入れるはずだ」
 通信を一度切り、通信機を地面に置く。
 ふっと総一が全身の力を抜くと、黒い霧のように《キャスト》としての姿が空中に溶けて消えた。残されたのは、『人間』としての高崎総一の姿だ。
 通信機を再び手に持ち探すと、操縦席に続くハッチはすぐに見つかった。一メートル半ほどの正方形をした扉は上開きになっており、おそらくこれを開けると階段か梯子でさらに下まで降りるのだろう。
 扉に手をかけた時、一瞬だけ総一の胸が高鳴った。
 安否、という言葉の意味を今さら問い返すまでもない。さっきまで言葉を交わしていた相手が、死んでいるかもしれないという可能性。
 あの『ビスク』――ヨエルは、総一に嫌われるような行いを避けていた。ならば、沢村睦月も動きを封じられていただけで、五体満足に生きているのではないか。
 楽観的な考えを上塗りしそうになる悪い想像を抑えつけて、総一はハッチを開けた。
 すでに時刻は16時を回り、低い日の光がまっすぐに差し込む船室の中はそれなりに明るい。ボート正面の大きなガラス窓から差し込むくっきりとした光によって、視認できる場所とできない場所が明確に分かたれていた。
「……沢村さん?」
 ハッチの上からかけた声に返事はない。船内からは物音一つしない。外から響いてくる、ボートにぶつかる波の音だけが静寂を破り続けている。
 それでなくとも物が多く薄暗い船内だ。明暗が区切られて視界が半減していることもあり、総一のいる場所からは睦月を確認することはできなかった。
 一メートルほど下へ伸びる梯子を下ってもそれは同じだ。総一には使い方はもちろん、機能すら想像もつかない機械で取り囲まれた操縦室は狭いというほど極端ではなかったが、見通しは決して良くはなかった。
「……ッ!」
 地面の上に視線を這わせた瞬間、自分の息が詰まる音を総一は聞いた。
 脚だ。睦月が着ていた制服の膝から下だけが、無造作に転がされているように見えた。
 動悸が高まるのを感じながら、じっと眼を凝らす。
 よく見れば、ちゃんと体は繋がっていた。膝から下だけが陽の光の下にさらされていたため、日陰に隠されていたそれ以外の部分を一瞬見失ってしまっていたのだ。
「沢村さん!」
 だからといって、倒れ込んでいる生死不明の人間に迷いなく駆け寄れたのは、血の臭いがなかったせいだろうか。
 ぐったりと倒れ込んでいる睦月には、ぱっと見てとれる外傷などはない。
 しかし、全く不可視の力で《恐怖》を拘束していたヨエルのことだ。全く外傷の残らない殺傷手段を持っていたとしても不思議ではない。
 総一は不用意に睦月に触れることなく、頬を叩いて睦月に呼びかけた。しかし、返事はない。
 鼻と口のそばに耳を近づけてみると、かすかだが確かに空気を吸って吐く音が聞こえた。規則的なそれは寝息のように穏やかで、そこでやっと総一は一息吐くことを許された。
「鹿島さん、聞こえますか?」
 通信機に向かって呼びかけると、しばしの沈黙の後に若干のノイズが入り応答がある。しっかりと腰を据えた、墓石のような鹿島の声。
「ああ、聞こえている」
「沢村さんは、とりあえず無事なようです。意識を失わされているようで、声を掛けても目を覚まさないのが気になるのですが……」
 それを聞いて、通信機の向こうから安堵したような吐息が漏れる音がした。
「そうか……。なら、こちらから救助隊を送る。そこでしばらく待っていろ。沢村は無理に動かさず、そっとしておけばいい」
「分かりました」
 通信を終えた総一は、睦月をそのままに再び梯子を上って甲板へ出る。
 救助隊が近づいてくるのをいち早く察したいということもあったが、総一にはもう一つ、それが来てしまう前に確かめておきたいことがあった。
(鹿島さんがわざわざ言ってこないということは、もう連絡は行っているんだろうが……)
 甲板の上から《顔無し》たちが去って行った方向を見据えると、それはすぐに見つかった。ポツリと海の上に浮かぶ、船のような何か。
 それは、ヨエルが最後に『届ける』と言い残したもの。
 《白騎士》――白城綾人が『クレイマン』の上に跪き、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。

   ●

 白城綾人は思い出す。
 敵の用意した船で、無様にも味方のところまで連れて行ってもらいながら。
 《白騎士》の全身は、目を逸らしたくなるほどに傷ついていた。四肢を貫通する穴は無理な戦闘が祟って大きく広がり、もはや肘から先はぶら下がっているだけのような状態だ。
 細かい切り傷が無数に刻まれ、美術品のようだった純白の鎧の輝きは紙やすりをかけた鉄板のようにくすんでいる。大きくへこんでいたり、ひしゃげていたり、欠けたりしている部分も少なくない。
 だが、そんなボロボロな姿の中で一つだけ変わっていないものがあった。
 剣だ。
 『クレイマン』の、平らになっている甲板部分に突き立てられた『破鋼』は、今さっき磨き上げられたような白銀を全く失っていない。
 それはまさしく、《白騎士》が三体の騎士型『マリオネット』に勝利したことを意味していた。
 無様極まりない戦いだった。周囲を完全に囲まれた状態で、戦術を立てる猶予もなく、格好を気にする余裕もなく、祖父に習った剣術も忘れ、ただただがむしゃらに敵に向かって剣を叩きつけた。
 だが、それがいかに無様だったとて、それを笑うものはどこにもいないだろう。彼と同じ力を持ち、彼と同じことのできる人間がどれほどいるというのか。彼は勝ったのだ、自分の全身全霊を掛けて、絶望的な状況を覆した。ならば、それは誇ってすらいいことであるはずだ。
 しかし、白城綾人は思い出す。胸を埋め尽くすあの敗北感。あの屈辱を。
 『ビスク』が《白騎士》の元を去って行った時、彼の心の中に途方もないほどに大きな黒い感情が渦巻いた。
 力及ばなかった自分が悔しかった。「自分と戦え」と叫べない自分が歯痒かった。『力』を出し切ることを畏れた自分が不甲斐なかった。
 だが、それだけではない。一番悔しかったこと。それは、敵の目に映っていたのが自分ではないことだった。
 あの銀髪の青年の標的は初めから、高崎総一ただ一人だった。始めに遭遇したのは自分だというのに、明らかな戦意をぶつけているというのに。彼は自分には全く関心を持たず、止めを刺すどころか彼自身の手では傷一つ付けることもなく、あっけなく踵を返した。
 『クレイマン』がモーターボートへ近づいていく。その甲板の上には仁王立ちする総一の姿があった。
 ボロボロの姿で跪く自分と無傷で見下ろす彼の姿は、まるで鹿島の執務室で戦った日の逆である。
 綾人は総一に言った。「お前は強くなど無い」と、「見ていて無様」だと。それがまるで、鏡のように自分に向かって跳ね返ってくる。
 今の自分は、嫉妬していた。高崎総一という、敵からも味方からも関心を集めている人間に。仲間であるはずの『人間』に、敵意すら感じている。
 そうだ。その気持ちは今さっき生まれたわけではない。今思えば、綾人は始めから総一が戦いに参加するのには反対だった。高崎総一という『人間』に対して、《キャスト》となった時の得体の知れない性格に対して、非日常に固執する異常な価値観に対して。全てにおいて危険だと自分の中の何かが訴えていた。
 組織に対してや人類に対してではなく、高崎総一という個人が、白城綾人という個人に対して危険だという危機感。
 それが今、形として現れようとしている。
(高崎総一……お前は、俺を破滅させる)
 『クレイマン』がボートに横付けされる。光の糸がほどけるように、鎧が形を失っていく。白城綾人と、高崎総一の視線が交差した。
(だから、その前に――)

   ●

 高崎総一は思い出す。
 この非日常に身を置こうと決めた、あの日のことを。
 《白騎士》は強かった。それはあまりに圧倒的で、容赦なく、完膚なきまでに総一を叩きのめした。
 総一が手にした『力』。それはおそらく、普通の人間からしてみれば途方もなく強大なものだろう。自分の今までの生活を一変させてくれる、ぬるま湯のような毎日をめちゃくちゃにしてくれる。そういうものなのだと、その考えは今でも変わっていない。
 だが、非日常に踏み込んで最初に現れた壁はあまりにも高過ぎて、まざまざと見せつけられた『高み』は自分に与えられた力など霞んでしまうほどの代物だった。
 彼を知りたいと思った。彼に『力』に対する憧憬は小鳥の刷り込みのように、もはや崇拝とも呼べる域にまで達した。
 『クレイマン』が近付き、《白騎士》が視認できる距離になる。その姿は今にも崩れ落ちそうなほどにボロボロで、一見して勝って戻ったのだとはとても思えないような酷い有様だった。
 それを見て胸に宿ったのは、失望と憤り。
『お前の心配するようなことではない。《白騎士》は、お前より実力も経験も遥かに上だ。自分がどうにかできると思うな』
 戦闘が始まる前の、鹿島の言葉が頭の中で蘇った。その時『心配』という言葉を聞いて、総一は思わず吹き出しそうになってしまった。
 違う。全く違う。彼に限って、彼に対してだけは心配など有り得ない。
 白城綾人は、自分に非日常の素晴らしさを見せつけた張本人なのだ。自分の前に立ちはだかった、遥か高みを示す大いなる壁なのだ。
 そんな彼を自分ごときが心配などするわけがない。心配する必要すらあるわけがない。
 総一は無表情で、跪く《白騎士》を見下ろす。
(こんなものではないはずだろう? お前は……《白騎士》という《キャスト》は)
 あそこまで自分を『壊した』男が、そんなに弱い存在なわけがない。
 高崎総一は思い出す。あの日、綾人が放った言葉を。
 「強くなど無い」と、「見ていて無様」だと彼は言った。全くその通りで、何も言い返すことができなかった。こうしてあの時と逆の立場に見下ろす状況にいることさえ、敵のおかげだという事実。今日まで総一は、自分の力では何一つ勝ち得ることなどできていないのだ。
 しかし、彼はこうも言った。「まだまだ」だと。ならば、強くなろうと決めた。『力』を求めようと決めた。いずれ、自分もその『高み』へ上り詰めるために。彼と同じ力を持って、彼と同じ景色を見るために。
(だから、お前にはそれまで頂点に居てもらわなきゃならないんだよ、白城綾人……)
 最高の障害だからこそ、そこに追い付いた自分は最高の手ごたえを感じることができるはずなのだ。追いかけていたものが三下では、自分の気持ちが浮かばれない。そんなことは許されない。
 『クレイマン』がボートに横付けされ、《白騎士》の鎧が紐解くように消えていく。高崎総一と、白城綾人の視線が交差した。
(そして、その時こそ――)

 二人の少年が、それを声に出すことはない。
 言葉など必要がなかった。交わった視線だけで十全に、相手も全く同じことを誓ったのだと語っていた。
 彼らは、全く同じ時、同じ場所で。同じ誓いをここに立てる。


 俺が、お前を殺す、と――



                            − 第一部 「総一」 完 −

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