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第二十七幕「繋ぎ止めるもの、罅割れていくもの(2)」


 緑川桜子は憂鬱だった。
 それは、さっき「明日から部活だ」などというウソを正樹に付いてしまった罪悪感からくるものでもあったし、横を歩く親友の饒舌なトークのせいであったかもしれない。
「で、どうだったの?」
 試験が終わって浮かれているのか、今後行きたい遊び場所についてべらべらと羅列していた君塚弥生は、一息吐くと興味津々と言った感じで桜子の顔を覗き込む。
「何が?」
「何が、じゃないでしょー。桜ちゃん、この前北里君と二人で勉強したんでしょ? 北里君の家で。何かなかったの、進展とかさー」
 いつも笑っているように見える桜子の細い眼が、困ったように歪められる。かろうじて形作った苦笑とともに、桜子は呟くように言った。
「進展も何も……。普通に勉強してただけだけど?」
 隣を歩く弥生は、それを聞くと呆れたように眉根を寄せる。
「えー、ホントにー?」
「ホントーに。それに、待ってるって言ったのはあたしなんだから……」
 二週間前、室内テーマパーク『ジオ・グランシティ』で桜子は確かに正樹に言った。「待っている」と。
 正直な話、桜子には正樹と付き合いたいとか、具体的に「どうなりたい」という気持ちはほとんどなかったのだ。
 この一ヶ月の間、桜子は精神的にひたすらかき回されてばかりだった。
 不意に口を付いてしまった言葉のせいで正樹との仲はぎくしゃくし、弥生はそんな二人を真剣に取り持とうとしている。自分が正樹の好きな人などとは、考えもしないで。
 一歩引いて傍観者を決め込むことにした高崎総一と違い、桜子にはこの問題から逃げる術はない。なにしろ、自分の発言が全ての原因なのだから。しかし、桜子は今日までそれを後悔してばかりいた。時を戻してやり直したいと、何度思ったことか。
 ただ、前のように気兼ねなく話して、遊べる仲に戻りたい。そればかりを考えていた。
 だからこそ、『ジオ・グランシティ』で正樹と二人きりになった時も、桜子は自分の考えをまとめきれずにいたのだ。
 勢いで走りだしてしまった桜子に追い付いた正樹が『待ってほしい』と言った時、彼女の内心にあった感情は、落胆よりも安堵だった。

『俺、今好きな人がいてさ。あと、今度試験もあるし…って、それはあんま関係ね―けど。だから、なんていうか、今余裕ねーんだよ。お前にあんなこと言われると思わなかったし、そう言う風にお前を見たこともなかったから……。だから、ちょっと時間くれよ! 色んな事に一端ケリが付いてから、そうしたら、その時に絶対真剣に考えるから!』

 他の人間がそのセリフを聞いたら、何を自分に都合がいいことをと怒り出すかもしれない。桜子自身、キープ扱いをされているのではと思わなくもなかったのだから。
 しかし、それでも桜子はそれに同意した。「答えを出すまでは、お互い今まで通りに接する」という条件を付けて。
 幼馴染である桜子は知っていた。北里正樹は――自分の好きな人で、幼馴染で、一番古くからの友達である人は――とてつもなく不器用な人間なのだと。一つの問題を抱え込んだまま、もう一つを片手間で解決することなんてできないのだと。
 もちろんそれ以外の複雑な感情もあった。先延ばしになれば自分にも機会があるかもしれないという打算。長く続け過ぎた初恋を失う恐怖。そして、親友に対する嫉妬。
 桜子は、隣を歩いている少女を横目で見つめた。
 少し横にハネたくせっ毛の少女は、垂れ気味の目にまだ不満そうな色を浮かべている。彼女もまた、正樹とは別の方向で桜子のことを真剣に考えてくれているのだ。
 それが、いかに的外れなものだったとしても。
「それにしても、桜ちゃんがうちに来るのも久しぶりだよね」
「まぁ、試験があったからさすがにね。そういえば男二人はあんなこと言ってたけど、弥生は試験どうだった?」
 弥生はあごに人差し指を当てて、少し考えるような様子を見せる。
「んー、まあまあかなー。この前みんなで遊び行ったりしてたし、私もいつもよりできてないかも。赤点は取ってないと思うんだけどねー」
 指を立ててあごに軽く当てるのは、弥生の何か考える時の癖だ。
 女の子らしくて、可愛くて。そして自分には似合わない。
 桜子は嫉妬をごまかすため、元々細い目をさらに細めた。黙っていても笑っているように見えるこの顔は、そんなことにばかり便利だ。
 桜子は、自分は待てると、そう思っていた。少なくとも『ジオ・グランシティ』で返事をした時に、正樹の好きな人が弥生だと確信した時にも、そう思っていた。
 彼が答えを求めて、彼女が答えを出すまで、自分はじっと待てると。
 しかしその気持ちは、僅か二週間足らずで揺らいでしまっていた。
 弥生と一緒に帰るたび。彼女の口から正樹とのことが話題に上るたび、いつも言ってやりたくなる。
『でも、アイツが好きなのは弥生なんだから』と。
 弥生は桜子のことを応援してくれている。正樹に対して友情以上の感情を持っているふしも全くない。ならば、その一言さえ言ってしまえば、正樹の恋は終わったも同然だろう。そうすれば、桜子は答えをもらえる立場になる。そこにどんな結末があろうと、こんなに悶々と、イライラを抱えた生活も終わりになるのだ。
 だか、そんなことは自殺行為にしかならないことも分かっていた。桜子の口から自分の気持ちがバレたのが分かれば、正樹がどう思うかなど考えるまでもない。
 桜子は、弥生に見られないようにそっと息を吐いた。今は我慢しかできることがない。そう分かってはいても、彼女の立場からすれば歯がゆさが募るばかりなのも当然だ。
「ん、どうかした、桜ちゃん?」
 たまに、意味もなくこの親友の顔を張り倒したくなる。
 その自分の醜さが本当にならないうちに、答えが出てほしい。
 桜子はそう、深く願うことしかできなかった。

   ●

 弥生の住んでいるマンションは、総一や桜子の通う霞ヶ丘高等学校から二駅ほど電車で行ったことところにある。
 駅からほど近く、年期を感じさせない外観は目新しい。高級マンションらしい意匠的な要素をいくつも取り込んだそれは、生まれた時から木造の一軒家に住んでいる桜子に多少の威圧感を与える程のものだった。
「相変わらず、お高そうなマンションだよね……」
 マンションの敷地内――エントランスまでの間には、簡単な庭園や子供用の公園まで設置されている――を歩きながら、桜子は言う。
「もう何度も来てるけど、やっぱ慣れないなーここは」
「えー、そんなこと住んでる人の前で言わないでよー。私だってここに馴染んでるってわけじゃないんだよ?」
 オートロックを解除しながら、困ったように弥生は言った。
「お父さんもあんまり帰ってこないんだから、こんなトコじゃなくてもっと小さい普通のマンションにしてくれれば良かったんだけどね。一人でいると、広すぎて持て余しちゃうよ」
 弥生は、この十階建てのマンションの最上階、4LDKの部屋に住んでいる。
 父親との二人暮らしと言う話だが、父親は仕事の都合でほとんど家に帰らないらしく、何度もこの家に邪魔したことのある桜子でもその父親と対面したことはなかった。
(弥生のお父さんって、実際なにしてる人なんだろう……)
 父親が私立探偵をしている。ということは、桜子だけは『ジオ・グランシティ』で聞く以前から知っていた。
 だが普通の私立探偵というものは、一人娘を何日も放っておいて泊まりの仕事をしなければならないほど、忙しいものなのだろうか。そして、それほど働きづめだったとしても、これほどの高級マンションに住めるほど金入りのいい仕事なのだろうか。
「お父さんに、もうちょっと気を使ってよーとか、そういうこと思わない? 家事も全部一人でやってるんでしょ?」
「えー、いやいや全然! そんなこと思ったことないし、思えないよ!」
 軽い気持ちで振った質問に、弥生は凄い勢いで手を横に振りながらそれを否定した。何故か、顔が赤いような気もする。
 エレベーターを降り、まっすぐな廊下の突き当たり。下を見下ろせば寒気さえしそうな場所で、弥生はしみじみと呟いた。
「お父さんには感謝しかしてないよ。私をこうして育ててくれてること、本当にありがたいって思ってる……。欲を言えば、もうちょっと家にいて欲しいんだけどね」
 育ててくれてありがたい、などという言葉は、日常会話の中でぽろりと零れるような軽いセリフではない。
 その時に感じた違和感に、しかし桜子は踏み込むことができなかった。
 弥生の父親の仕事の内容、彼女が片親で暮らしている理由。高校に入ってから二年弱、親友と呼べるような付き合いをしてきたと自負する桜子であっても知らない部分はある。
 そして、それは今彼女が弥生に抱いている感情を顧みれば、とても半端な気持ちで踏み込んではいけないもののように思えたのだ。
「あ、あれ? ごめん桜ちゃん。ちょっとここで待っててくれない?」
 何度もくぐった玄関の前で、すでに靴を脱ぐ体勢に入っていた桜子に、弥生は焦った調子で制止をかけた。
「んー、どしたの?」
 玄関を覗き込んだ桜子の視界に入ったのは、二足の靴だった。
 片方は綺麗に磨き上げられた黒い皮靴。その隣には底が分厚く、編み上げるタイプのミリタリーブーツが乱雑に脱ぎ捨てられてある。
「ちょっと、お父さんたち先に帰って来てるみたいだから、一声かけてくるね。もしかしたら仕事の話してるのかもしれないから」
「あ、うん。分かった」
 そのままバタバタと音を立てて家の奥へ行ってしまって数分。玄関に棒立ちで待っていた桜子が若干の気まずさを覚えてきたころ、弥生は戻ってきた。
「ごめんねー。なんか予定早まったみたいでお父さんと助手の人がいるんだけど、私の部屋にいる分には問題ないから。上がって上がってー」
「いいの? あれだったらあたし帰るけど……」
「いいのいいの! ここまで来てもらったんだから、とりあえず部屋でお茶でも飲も?」
「うーん、それじゃあ。おじゃましまーす」
 玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の両側には、三つの洋室がある。そのうちの一つは弥生の父親の私室、もう一つは仕事場という名の物置になっており、残りの一つは使われていないそうだ。
 弥生の部屋は、廊下の突き当りの中扉を越えたリビングに隣接している。つまり、そこへ行くためには必ず例の父親と顔を合わせることになるわけだ。
「そういえば、桜ちゃんはお父さんと初めて会うんだっけ。なんか恥ずかしいな」
 緊張している桜子が、弥生に引かれるように中扉を抜けると、そこには――
(……え?)
 広すぎるほどに広いリビングに、二人掛けのソファが二つ、向かい合わせに置かれている。大型の壁掛けテレビの前でひざ丈のテーブルを挟むようにして、そのソファに二人の男が座っていた。ガラス製のテーブルの上には、様々な資料らしき書類がずらりと並んでいる。
 桜子が驚いたのは、その男たちの外見である。片方の男は一目で助手の方だと分かった。大人びてはいるものの明らかに未成年だ。
 だが、消去方で残ったもう一人。つまり弥生の父親の外見も、これまた若すぎるのだ。
 スーツの上着を脱いで腰かけているその男性は、どう見ても四十代には見えない。三十代中頃か、それよりも前といったところだろう。均整のとれた無駄な肉の無い体つきが、余計に彼を若々しく見せている。
 男性は立ち上がると、大きな口を広げてニカッと笑った。笑顔の良く似合う男の人だと、桜子は思った。
「はじめまして、弥生の父の陽一です。君は、緑川さん……だよね? たまに弥生から話は聞いてるよ。これからも仲良くしてあげてね」
「は、はい。こちらこそ」
 勢いのある、滑舌のいいテノールに気圧されるように頭を下げる。
 それで挨拶も終わりかと桜子が通り過ぎようとすると、君塚陽一は助手らしき青年の腕を掴んで無理やり立ち上がらせた。心底面倒そうな青年に、
「ほら、お前も挨拶くらいしとけよ」とダメ押しをする。
 その青年の口元が、「なんで俺まで……」と動くのが見えた。
 180センチ以上ある正樹よりも、なお高い長身。スポーツでもやっているのか、背の割りにしっかりとした体つきで、筋肉質な細見という印象だ。目にかかるほどに伸ばした髪を無造作にいじっただけの髪型、気だるげでやる気のなさそうな眼、不精者という言葉がピッタリきそうな青年だった。
 その青年の、どこをそう思ったのか。
 一瞬だけ桜子は彼が、高崎総一に似ているような、そんな気がした。どこがそうなのか分からなかったので、一瞬で思いなおしたのだが。
「え……っと。こんなデカいけど、歳はそこの人と同じだから、敬語とかいいんで……。って、順番が逆か」
 そこの人、とは弥生のことだろう。
 青年はこういう事に慣れていないのか、ボリボリと気まずそうに頭をかいてから、名乗った。

「片瀬、祐二。まぁ、よろしく」


次回予告

 ついに姿を見せることになった片瀬祐二。果たしてその正体とは、高崎総一との関係は!?
 そして、『大堤防』へ呼び出された総一は、ようやくこの戦いの原点と終点を知らされることとなる。

 次回、Face to Fake――「Into the Black(3) -Dream-」


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