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第二十八幕「Into the Black(3) -Dream-」


 また、あの夢を見る。
 どこまでも続いているのか、それともすぐ近くを壁で囲まれているのか。開放感と閉塞感が同居するような薄闇の中。鼻の奥へ無理やり入り込んでくる強烈な異臭は、おびただしいまでに溢れた血液のそれだ。
 そして目の前には、悪魔のような姿をした異形の巨人。
 これは夢だ、と念じてみても全く消える素振りの無いこの夢を彼が見るのは、初めてではない。
 この夢を見るのは、決まって何かに打ち込んでいたり、忙しかったりする時ばかりだ。
 『あの日』から、絶対に忘れることのできないこと。心の奥底にへばり付いて離れない出来事。そう痛いほどに自覚しているのに、他の事に気を取られそうになるたび、この夢は執拗に『罪を忘れるな』と彼を責め立てる。
 目の前に立つ巨人の頭部の両側には、山羊のような捻じれた角が生え、首から下は人間のようだが肘から先と膝より下が一際大きい。指は、それ自体が爪であるかのように鋭かった。
 その三メートル近い異形が、彼に見せつけるように右手を挙げた。その手の中にはあまりに弱々しく頼りない、どこかで見た覚えのある少女の姿がある。
 吐き気を催すほどの血の臭いでくらくらする頭を抱え、『最悪だ』と彼は呟いた。あくまで夢の中の出来事であり、しかも自分のつま先さえ見えないこの薄闇の中だ。実際に声を出してはいなかったのかもしれない。
 しかし、その声に反応したかのように『彼女』はこちらへ振り向いた。
 その顔は苦痛と恐怖に歪んでいる。深く食い込んだ爪、制服に滲んだ痛々しい赤、どうしようもなく近づいてくる死の実感に、全身を震わせていた。
 当然だ。『彼女』は巻き込まれただけだったのだから。『あの日』に巻き込んでしまったのは彼自身で、そのせいで『彼女』は死んだ。それは否定する気も起きないほどに事実なのだ。
 『彼女』と目が合う。
 痛かったろう、苦しかったろう、辛かったろう。逃げたかったろう、泣きたかったろう、生きたかったろう。自分がこんな状況に陥った不条理に、原因を作った少年のことをどれほど口汚く罵ったとしても、おかしくはなかったのに。
 なのに、『彼女』は笑ったのだ。
 そして言った。「大丈夫だから」と、「気に負うことはないのだ」と。「君たちは逃げなさい」と。小学生だった彼から見ても、そんなものは痩せ我慢と強がりに決まっている。大丈夫なわけはないし、気にせずに済むわけがない。
 彼はそれを聞いても逃げ出すことなど出来なかった。それは『彼女』を見捨てられない正義感などでは全くなく、ただ膝が震え、足がすくんで動けなかっただけの話。
 『彼女』を死地へ誘い出しただけでなく、『彼女』の最期の勇気にさえ満足に応えられない。
 次に彼の目の前で起こった光景は、そんな彼への罪なのかもしれなかった。

 人が握り潰される音は――骨があるからだろうか――思っていたより硬く、それほど大きな音でもなかった。しかし、異形の手からぼとぼとと『彼女だったもの』がこぼれ落ちる音は、深く彼の心に焼きついて離れない。
 何度同じ夢を見ようとも決して慣れることのない光景に、込み上げる胃酸が彼の喉を焼く。彼はそれを吐き出してしまうのを、じっと堪えた。
 異形の巨人を彼は見やる。体長三メートルはあろうかという巨人は、ぬらぬらと赤く光る爪を掲げ、ただ立ち尽くしていた。
 全てが薄闇に溶けるはずのこの夢の中で、その巨人だけが酷く鮮明に写る。
 全身が金属のような光沢を放つ、悪魔のような銀色の巨人の姿が。

   ●

 そうして、片瀬祐二は目を覚ました。
 一回身をよじってから、そこが君塚家のリビングであることを思い出す。ソファの上で上体を起こして額を拭うと、秋も半ばを過ぎたというのにびっしょりと寝汗をかいていた。
「……ふぅー」
 実際に何か戻してしまったわけではないのだが、口の中にまだ胃酸の臭いが残っている気がして、祐二は一度深く息を吐く。
「あ、もしかして起こしちゃった?」
 突然かかった声に振り向けば、廊下へ続く中扉から君塚弥生が顔を出したところだった。黄色のトレーナーにデニムのスカート。腕まくりされた両手に、たくさんの洗濯物が入った桶を抱えている。
「いや……今、何時?」
「んー、十一時過ぎかな。昨日も夜遅くまで仕事してたんでしょ?」
 軽くたしなめるような弥生の言葉に、しかし祐二が返す言葉は素っ気ない。
「ああ、まぁな。陽一さんは?」
「お父さんは朝早くから出かけてる。祐二君に、「昨日言った通りによろしく」って伝えてくれって。お腹すいてるならこれ干し終わった後に何か作るけど、食べる?」
「ん……ああ、頼む」
 洗濯物を干しにベランダへ出ていく弥生を見送ってから、祐二は自分がそれほど空腹でもないことに気付いた。あんな夢を見た後だ、すぐに物を食べられるような状態ではないのだ。汗で肌にべっとりと張り付くシャツが気持ち悪い。
 洗面所へ移動して顔を何度も洗っても、それを完全に拭うことはできなかった。
 勝手知ったるという風に戸棚からタオルを取り出し、顔の水気を取ってからリビングに戻ると、香ばしいベーコンの焼ける匂いが祐二の鼻をついた。
 座って待つように弥生に言われ、テーブルに付く。昨日、君塚陽一との打ち合わせに使っていた膝丈のものではなく、四つの椅子と揃いになっている深く濃い茶色で木製のものだ。
 しばし待ち、食事が始まる。祐二には朝食、弥生には早めの昼食である。しかし二人の間に会話はなく、奇妙な沈黙を強いる空気がその場に流れていた。
 それに耐えきれなくなったように口を開いたのは、弥生の方だった。
「まだ、高崎君に会う気はないの?」
 ピタリと、手と口の動きを止める祐二。その場の空気が一気に重さを増したかのような錯覚。
「最近の高崎君は、たまに昔の祐二君と同じ眼をしてるときがあるよ。自分以外の……今までの日常だったもの全部を客観的に見てるような眼。まるでテレビを見てるみたいに、そこは自分の場所じゃないって確信してるような眼……」
 ようやく動いた祐二の視線が弥生を貫く。あまりにも鋭いそれには殺気さえこもっているようで、弥生は思わず口をつぐんでしまった。
「それで、俺にどうしろと? 会ったところで、総一は『あのこと』どころか、俺のことさえ覚えちゃいないだろうさ。アイツにもしも会うとしても、それはアイツが全部思い出してからの話だ」
「それを思い出させられるのは、祐二君しかいないんだよ!?」
 声を荒らげ、思わず立ち上がりかける弥生。ガシャンと、体に軽くぶつかった食器の立てる音で正気に戻ったように、ばつが悪そうに座りなおす。
 祐二はそれを見てため息混じりに呟いた。
「落ち着けよ」
「……ごめん」
「総一は……今、戦ってるんだろ?」
 弥生は、ゆっくりと頷いた。
「多分。でも三週間前の臨海公園での件は、間違いなく高崎君へのアプローチのはずだよ。なら――」
「ほぼ間違いない、か」
 祐二はボサボサの前髪を鷲掴むように目の上を手で覆い、天を仰ぐように椅子の背にもたれかかる。
「アイツは……《顔無し》に会っても思い出さなかったのか……」
 夢の中の情景、焼きついた記憶、『彼女』の死の瞬間。それを忘れることなど決してできはしない。だが、もしもそれができたのなら――
(二度と思いだしたくないのは、俺も同じなのか……)
「でも」
 そう。でも、そうならなかったのだと、祐二は自分へ言い聞かせるように続ける。
「その壁を最初に作ったのはアイツだ。アイツが俺を『こっち側』に取り残した。それを俺は許せないし、今さら許す気もない。ましてや、アイツを助ける義理なんてあるわけがないんだ!」
 飽和する憤りを吐き捨てるように、祐二は言った。
 憎しみすら漂う、強く揺るがない言葉だった。それでも、弥生は食い下がるように呟く。
「祐二君。『あれ』から、もう七年だよ?」
 祐二はいつの間にか空になっていた食器を片づけながら、弥生には答えず立ち上がった。台所の流しにそれを置き、リビングに戻ると自分の上着を掴んで立ち去ろうとする。
 その去り際。これが最後とばかりに、祐二ははっきりと言い放った。
「時間が解決するような問題じゃないだろう。俺の問題も……お前のもな」

   ●

 日曜日、土曜一日を使って体を休めた総一は、以前と同じ道のりで『東京大堤防』へと向かっていた。
 品川の『ジオ・グランシティ』に入り、雪野透花から事前に受け取っていたキーを使ってスタッフ用の扉をくぐる。さらにエレベーターで地下へ降りれば、関係者専用の地下鉄の乗り場がある。
 それに乗り込み二十分も揺すられれば、約一週間ぶりの扉が総一を待っていた。
 前回は雪野透花と一緒だったが、今回は総一だけでの訪問になる。緊張を胸に扉をくぐった総一を迎えたのは、意外な人物だった。
「沢村さん!」
 その人物の姿を見るなり、早足で駆け寄る総一。
「やあ、よく来たね。道には迷わなかったかな?」
「はい。その……体の方は大丈夫なんですか?」
 おそるおそる聞く総一に、その青年――沢村睦月は腕を振り上げ、大げさなガッツポーズをして答えてみせた。
「この通り。君のおかげでなんとかピンピンしてるよ。全く運がよくてね。あの戦いの翌日に意識は戻って、精密検査も異常なし。頭をどうにかされたらしくて軽い脳震盪だって聞かされたんだけどね、不思議なことに外傷はないんだ。まぁ、こっちとしては助かったよ」
 頭を小突いてみせる睦月を見て、総一はほっと息を吐き出す。
「そうですか、よかった」
「高崎君があの『ビスク』を追い払ってくれたんだろ? それがなかったら確実に死んでたよ、ありがとう」
「いえ……そんな……」
 例を言われた総一は、妙な居心地の悪さを感じた。
 自分が何かしたわけでもない。あの『ビスク』――ヨエルが退いてくれたのは、ただ奴の気まぐれだったのだ。その自覚を総一は持っている。
 しかし嬉しそうな睦月の笑顔を見ると、総一はそれ以上何も言い返せないのだった。
 睦月の先導で廊下を歩きだすと、総一は一番気になっていたことを切り出してみた。
「沢村さん。今日、俺は何のために呼ばれたんですか?」
「うん。それなんだけどね」
 睦月は一拍置いてから、歩みを止めずに答える。
「この間、君にとっては初めて《顔無し》とまともに戦ってもらったわけだけど、君にはまだ知らないことがたくさんあるよね」
 そういえば、と総一は思い出す。この間の戦いの前、透花が一度説明を挟むはずだったとかなんとか言っていたことを。
「《顔無し》のこと、君たち《アクター》と《キャスト》のこと、敵のいる『太平洋隕石』と、この『大堤防』のこと。随分と遅れてしまったけれど、今日呼んだのはそれを説明するためなんだ」
 それらのことを、総一は今まで意識しなかったわけではない。いくら戦いにばかり目が行っていたとはいえ、綾人や透花が断片的に語った情報はしっかりと頭の中に残っている。
 ただ、それらを一から整理して受けとめるには情報も少な過ぎたし、なにより時間がなかっただけの話。
 色々なことが落ち着いた今、ようやくそれに対面する時が来たということだ。
 しばらく廊下を歩いてエレベーターを乗り継ぐと、見覚えのある通路に行き当たった。
「ここは……」
「ん? ああ、そうか。高崎君は一度、来たことがあるんだったね」
 臨海公園での一件で気を失った総一が運ばれた、妙な機械が置かれている医務室のような部屋。白城綾人と初めて言葉を交わした場所でもある、その部屋の前を通り過ぎる。
 そして、この廊下を真っ直ぐ進んだ先にある部屋に、総一には一つしか心当たりがない。
「鹿島、智久……ですか?」
「そう、これから行くのは鹿島さんの執務室さ」
 直接会うのはこれで二度目になる。今総一が面識のある人物の中で、おそらくもっとも立場が上の人物。
 思えば、今後上司となるような人物に初対面でえらい啖呵を切ってしまったものだと、総一は睦月に分からぬように苦笑をこぼした。
 そうこうしているうちに、突き当たりに大きな鉄扉が見えてくる。両開きの、執務室というには大きすぎる扉。傍らにあるカードキーの受光部と内線らしき受話器も、以前と何も変わっていない。
「悪いけど、別の仕事があるから僕はこれでね」
 そう言い残して、睦月は踵を返し去っていった。
 一人残された総一は、一回深呼吸をしてから扉脇の受話器を手に取る。
「高崎です。この間言われた通りにやってきました」
「よし、入れ」
 手短に帰ってきた返事と同時に、重い音とともに鉄扉がゆっくりと開いていく。
 その扉の正面。執務室の奥にあるデスクに腰掛けた鹿島智久は、総一を見るとデスクの向かいに置かれているソファを顎で指し、
「そこにかけていろ」と言って立ち上がった。
 以前のようなパイプ椅子ではなく、ちゃんと来客用にと用意されたソファに腰掛け、総一はぐるりと周りを見渡す。
 相変わらず物の少なさに見合わない広々とした部屋は、あれだけの戦闘があったとは思えないほどきれいに修復されていた。《恐怖》の能力によって抉られたはずの壁も、床も、傷一つ残っていない。
 しかし、若干ながら違いは見られた。総一が今座っているソファなど、以前に来たときよりも物が増えているのだ。
「この間はご苦労だったな」
 そのうちの一つ、部屋の傍らに置かれていたコーヒーメーカーから、鹿島がカップを持ってきて総一の前の丸机に置く。
「いえ、戦いに参加すると言ったのは俺の方ですから」
 総一が返す言葉を聞いて、鹿島はふと意味ありげに眉を寄せた。
「それでも、お前のおかげで『ビスク』が撤退してくれたのは確かだ。……その『ビスク』に関して、お前に言っておかなければならないことがある」
 鹿島はデスクに戻ると、組んだ腕の上に顎を乗せ、厳かに告げた。
「お前が『ビスク』と話していた内容は、絶対に誰にも口外するな。いいな?」
 次に眉根を寄せるのは、総一の番だった。
 鹿島の言っていることは分からないではない。敵に勧誘されたなどと周りに知れたら、今後味方からどんな目で見られるか分かったものではないからだ。
 だが、鹿島の口調は総一のことを気遣ってのものにしては、あまりにも強く、有無を言わせぬ響きがあった。
 明らかに別の目的があることを臭わせ、しかしそれに踏み込ませない頑なさ。その言葉に総一は、ただ頷くしかなかったのだ。
「よし、今日の目的は沢村に聞いたな?」
 再び総一が頷くと、鹿島は多少柔らかくなった声で先を続ける。
「今から話すのは、人類が《顔無し》と出会い、なぜ対立することになったのかという、この戦いの原点。そして、それに対抗するために人類が手にせざるを得なかった、『力』の話だ」
 鹿島はゆっくりと、それを語り始める。
「この戦いは七年前。『太平洋隕石』などとは比べ物にならないほど小さな、一つの隕石から始まったのだ」

 その時は、誰も知らない。七年前のその当事者こそ、語り部の前に座る少年であるということを。


次回予告

 語られる七年前の出来事。現状を把握した総一は、自分に足りないものを自覚する。
 そして新たな《アクター》と共に、総一は組織の一人としてようやく動きだす。

 次回、Face to Fake――「もう一つの隕石」


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