TOPに戻る
前のページ 次のページ

第三十六幕「傷を抉る花(1)」


 二〇二一年十一月七日、日曜日。その日は週中の快晴から一転して、狙い済ましたように大降りの雨だった。
 『東京大堤防』内のドックは屋内にあるが、ボートが浮かべられている水回りは外から入り込んできた波のせいで水浸しだ。外と内とを隔てている下の開いたフェンスが、ガシャガシャと派手な音を立てて揺れている。
 そのドックの中を、レインコートを着た『組織』所属の自衛隊員たちが忙しなく行き来していた。出撃まであと一時間を切った今はまさに追い込みといった様子で、どの人間の顔にも真剣な表情が浮かべられている。
 高崎総一はそんな中、以前白城綾人の戦闘を見ていた巨大ディスプレイの横で、所在なさげに壁に寄りかかっていた。
 他の人間と同じ透明なレインコートを私服の上から羽織り、手には紙コップに入ったコーヒーを持っている。特に何かを見ているでもなく、ただ全体の雰囲気をぼーっと眺めているだけ。
 一度戦闘が始まれば最前線に立たされる《アクター》も、人間の姿でいる限りはただの子供だ。今大人たちが忙しそうに何をしているのかも、時折会話の中に聞こえてくる専門用語の意味も、彼にはよく分かっていない。
 忙しい現場で、一人でいる子供に話しかけるものなどいるわけもなく、総一は一人で物思いにふけっていた。
 今日、この場に白城綾人の姿はない。衛星カメラの情報では今日の敵の中に『ビスク』はいないようで、総一ともう一人の《アクター》だけで十分だと、現場指揮官である鹿島智久は判断したようだった。
 総一はちらりと、その今日出撃するもう一人の《アクター》――雪野透花を横目で見る。
 透花は総一とは違い、元からこの『組織』で下働きのようなことを続けてきた人間だ。他の隊員たちと同様に、ファイルを片手に忙しそうに歩き回っている。
(これから一番前で戦うってのに、あんなに働いて大丈夫なのかねぇ?)
 いつもの無表情に近い、冷静で冷徹な感じのする顔立ちはそのままだが、明らかに疲れているのが遠くからも見て取れた。
 そして、きっとそれは鹿島のためなのだろうと、総一は思う。
 数日前に透花と話をして気付いたこと。彼女は表情がないのではなく、表現の仕方を知らないだけ。改めてそういう目で見れば、気付く表情の変化はいくつもあった。
 雪野透花は真面目で、融通の聞かないタイプに見える。まず間違いなく鹿島の影響だろう。笑わないのではないし、怒らないのではないのだ。ただ、そういうことを大げさに表現するだけの機会が、自分の前で起こらなかっただけの話。
(アイツ、鹿島の前では笑ったりすることもあるのかな)
 総一のテンションは、今までの出撃に比べて明らかに低かった。
 それは、綾人や『ビスク』といった特別な存在が戦場にいないから……というわけではない。
 総一は自分の分をわきまえているし、今は戦いに慣れることが強くなる一番の近道だと納得もしている。
 そもそも頭の中が、完全に戦闘モードに切り替わっていない感じなのだ。
 士気が上がらない一番大きな原因は、自分でもなんとなく見当がついていた。戦闘が始まる前に鹿島に呼ばれ、そこで告げられた言葉のせいだ。

 鹿島は総一を本来の集合時間より早めに執務室に呼びつけると、こう言った。
「今日の出撃、お前は後方からの支援だけをやっていればいい。遠距離から、指定した防衛ラインから侵入してきそうな敵を狙い撃ちするんだ」
 そこまでは、特に問題がある話でもない。透花の《キャスト》は、それだけ信用が置ける前衛タイプだということなのだろう。
 総一はそう考えて、素直に頷いた。
 だが、鹿島はさらにそれにこう続けたのだ。
「それと、敵が全滅した後にどういう事態が起こっても、取り乱さず落ち着いて対処しろ。そして、こちらの指示には絶対に従うんだ。いいな?」
 総一は内心首を傾げた。戦闘中に、と言うなら話は分かる。だが、敵が全滅した後に動揺するなとはどういうことだろうか。しかも、それを前もって忠告するということは、その事態は予測されているものということだ。
「それは……どういうことですか? 今日、戦闘が終わった後に何か起こると?」
 当然の疑問に、しかし鹿島は首を横に振るだけだ。
「何も起こらなければ、それでいい。その可能性もある。ただ、心構えだけはしておけ、という話だ」
(なんだ、それ?)
 原因も話せず、ただ覚悟はしておけと。何をさせるつもりかは分からないが、ろくなことではないという空気だけがひしひしと伝わってくる。
 とりあえず了承して執務室を出て行こうとする総一に、鹿島は小さく声をかけた。いや、もしかしたらそれは、独り言だったのかもしれない。
 その言葉を呟かれたとき、総一は鹿島の顔を見ていなかった。しかしそれは、いつもの厳粛然とした鹿島智久とは全く異なった顔で言ったのだろうと、総一は自然にそう感じたのだ。
「あの子を……よろしく頼む」
 その声が、あまりに弱々しかったから。

「どうかしましたか? ぼーっとして」
「うわっ!」
 突然かけられた声に驚いて、総一は危うく手に持ったコーヒーを溢してしまいそうになった。
「出撃まで三十分を切りました。気を引き締めておいてもらわないと困ります」
 下から総一の顔を覗き込むようにしてそう言ったのは、件の雪野透花だ。
 先ほど見かけたときに手にしたファイルはすでになく、代わりに総一と同じ、紙コップに入ったコーヒーを持っている。どうやら作業が一段落着いたところらしい。
「具合でも悪いなら、医務室まで案内しますけど?」
「いや、大丈夫。そういうんじゃない。ちょっと考え事をしててな」
「そうですか、ならいいんです」
 淡白にそう答えると、透花は総一の隣で同じように壁に寄りかかって、コーヒーを一口すすった。
 二人の間の距離は一メートルほど、会話を求められている風でもない。手持ち無沙汰になれば居場所がないのは、透花も同じということなのだろう。
 その横顔を、総一は盗み見ながら考えた。
(『脈はあると思うよ』なんてここで言ったら、コイツはどんな顔をするんだろうな……)
 鹿島の言った『あの子』とは、まず間違いなく透花のことだろう。
 二人がどういう関係なのか、総一は良く知らない。しかし、お互いがお互いをこれだけ気にかけているなら、きっと指揮官と《アクター》という仕事上の肩書き以上に、互いのことを想っているのだろうと察しは付く。
 鹿島から透花への気持ちが、恋慕か父性かは置いておくとしても。
(いや……バカか俺は)
 透花に気付かれないように、総一は小さく首を横に振った。
 近くて遠い二人。伝えられない想い。そんなこっぱずかしい単語を、少し前にもどこかで思い浮かべた気がする。そう、北里正樹と緑川桜子の一件だ。
 自分がここで口を出すのは、あの時に弥生がしたことと同じ。要するに、余計なお節介である。いや、それよりももっと酷いかもしれない。友達でもない人間の恋愛に茶々を入れるなど、自分はそんなに出張りたがりではなかったはずだが……。
「本当に、どうかしましたか?」
 かけられる声。隣にいる人間を盗み見ていたのは総一だけではなかったようだ。
 透花は心配して、というよりも不思議そうな顔で、総一にそう問いかけた。
「いつも戦闘前は――失礼ですけど――怖いくらい昂ぶっている様子なのに。今日はなんだか、普通の人みたいですね」
「本当に失礼だな」
 そう言い返しながらも、まったくだ、と総一は心の中で頷いてしまった。自分はもう普通じゃない。日常より非日常を選び、好き好んで戦いの中に身を置いている。そのはずなのに、戦いよりも他人の恋愛沙汰のほうが気になるなんてどうかしている。
 だが、そんなことを素直に言い返せるわけもない。
「まぁ……ちょっとな。アンタはさすがに落ち着いてるな。こういう空気はもう慣れっこか?」
「……いえ、そんなことはないですよ」
 そこでいったん言葉を止め、透花は辺りに目をやった。慌しげに動き回る人たちは、総一たちのことなど目に入っていないように足早く通り過ぎていく。
「こういう空気に慣れることは、多分ありません」
 細く通った眉が、ほんの少しだけ寄せられたのに総一は気付いた。
 同じく細い切れ長の瞳。腰に届くほど長い黒髪が、今日は雨のせいか重く湿っているように見える。
「そういえば、さっきは何をしてたんだ? ファイルみたいなの持って、歩き回ってただろ?」
「ああ、あれは武装の搭載確認です。基本的にここでの出撃は二週間ごとなので、一回ごとに装備は全て外してしまうんです。そこで、きちんと弾薬が適切な数積み込まれたかどうかの確認を」
「ふーん。そういう雑用って、そのうち俺もしなきゃいけないのかね?」
 自分で聞いておきながら興味なさげな総一に、透花は首を横に振った。
「それはないと思います。あくまで、高崎さんは《アクター》としての仕事が専門ですから」
「ん? それは、アンタの本職は《アクター》じゃないってことか?」
 その時、ドック全体に大音量のブザーが鳴り響いた。会話は中断され、二人の顔が緊張で若干引き締まる。
「出撃十分前ですね。それじゃあ、私はこれで」
 それだけ言い残すと、あっさりと踵を返して透花は歩き去ってしまった。
 回答の返らなかった疑問だけを、置き去りにして。
 
   ●

 総一にとって二度目になるボートの上は、初回とは比べ物にならないほどに大きく揺れていた。
 総一はすでに《恐怖》へと『変換』し、振り落とされないように甲板に爪を立てている。その腰には、戦いの邪魔になるからと普段は用いない命綱が、しっかりというよりもがっしりという様相で取り付けられていた。ボートから伸びる鋼のワイヤーと金属製のベルト。仰々しいそれからは、今日の波の強さがどれほどのものか窺い知れるようだ。
『まったく。《顔無し》もわざわざこんな日に攻めて来なくてもいいのにね』
 《恐怖》の耳元に貼り付けられた小型スピーカー――『耳』から聞こえた声は、このボートを操縦している沢村睦月のものだ。
 数日前に鹿島から、通信は録音されていると聞かされたばかりの総一は、それを聞いて苦笑する。
「いいんですか、そんな愚痴みたいなこと言っちゃって」
『いいのいいの。このくらいはみんな普通に言ってるよ。この隊は若い人が多いし、やることさえやっていれば隊長もそんなに厳しくないから』
 隊長、とは鹿島のことだろう。アレが厳しくないとは総一には思えなかったが、確かに録音しているからといって、私語を全て禁止するのはやりすぎだ。
『それにしても悪いね。こんな雨の中なのに一人だけ外にいさせて』
「仕方ないですよ、この命綱を付けるのはドックでしかできなかったんですから」
 《恐怖》の腰についている金属製のベルトはとても重く、数人がかりで取り付けるしかない。つまり、ドックにいる時点で『変換』しておくしかないのだ。
 ベルトはそこまで複雑な機構で締められているわけではないので、《キャスト》が自分で取り付けられるならそれでもいいのだが――
「こんな手じゃあ、ちょっとしたツマミもいじれませんからね」
 そう自虐して語る《恐怖》の指は、一本が三十センチはあろうかという鋭い爪なのだ。こんなもので精密作業ができるわけがない。
「それに、雨も思っていたほどキツくないんです」
 それは、総一自身が驚いていたことだ。
 《恐怖》の外見は、主に筋肉の繊維が剥き出しのような黒ずんだ男の身体。そこに骨のような外装が肘から先、膝から下、そして顔面を包んでいる。全長が三メートル近いという点を除けば、ほとんど人間に近い形状をしていると言える。
 もしも、人間が大雨の中でボートの甲板に立っていたなら、それは戦うどころの話ではない。こうして普通に喋ることさえ満足にできないだろう。
 しかし、今の総一にはそれが難なく行えている。
 中身はまるで違うのだ。目に水が入って痛いということはなく、水を飲んでしまうから喋りづらいということもない。同じようなのは形だけで、眼球も肺もその役目を果たしていないのだ。どういう理屈かは分からないが、《キャスト》は呼吸さえ必要としないらしい。
『へぇ。でもそれはなんていうか……気を悪くしないで欲しいんだが、なんか怖いね』
「そう……ですね」
 《キャスト》は、本当に人間とは違う。少なくとも、人間と同じ方法で生命維持はしていない。
 前にヨエルが言っていたことは、本当のことなのだ。
 ふと目線を横に向けると、総一の乗っているものと共に最前列を走る、もう一台のボートが目に入った。それには雪野透花が乗っているはずだ。
『前方500。敵本隊を確認。防衛ライン送信。各員指示に従い配置に付け』
 『耳』からの声に顔を前方に向ける。目に水が入らないといっても、降り注ぐ雨粒のせいで視界が悪いのは変わらない。
 《キャスト》になって強化された視力でも、遠くにうっすらと敵の影が確認できるだけだった。
(これじゃ、後方からの狙撃なんてほとんど役に立たないぞ……。まぁ、今回はお手並みを拝見てとこなのか?)
 そう思い透花のボートに再び目を移した総一は、その光景にぎょっとした。
 ボート操縦席と甲板を繋ぐハッチから、先ほど別れたときと同じ格好の雪野透花が現れたのだ。
 繰り返すが、今日は物凄い豪雨で、ボートはまだ走り続けている。《恐怖》でも、甲板に爪を立てなければ押し流されそうな強風なのである。
「なっ……! 何をやってるんだアイツは!」
 透花はあろうことか、掴まるものが何もない甲板の中央へと歩を進めていた。腰をかがめながらではあったが、彼女をどれほどの風が襲っているかは、バッサバッサとたなびく長い黒髪が教えてくれている。
「沢村さん、アイツの船に連絡してください! このままじゃ、アイツ飛ばされちゃいますよ!」
 しかし、返ってきた睦月の声は冷静そのものだ。
『大丈夫だよ』
「大丈夫って……!」
『見えないか? 彼女の『仮面』が』
 総一は目を見張る。甲板の上で、透花はすくっと立ち上がった。
 髪は変わらず派手にたなびいているが、よく見れば彼女自身は全く揺らいでいない。まるで甲板に固定されたかのように、直立不動で動かない。
(いや……あれは……)
 透花の身体を、何かが支えていた。水でできた触手のようなものが何本も何本も、透花の背中から生えてうねっているのだ。
 そのうちの数本が、第三・第四の脚となって彼女を甲板に固定している。
(あれが、アイツの『仮面』?)
 それは、総一が想像していたどんなものより、あまりに異様だった。
 透花の背から生える触手は、その点だけで言えば翼のように見えなくもない。しかし、自分の意思でも持っているかのようにうねるそれは余りに生々しく、透き通った外見とは真逆のおぞましさを総一に感じさせた。
 すっと、透花が片手を上げる。今までまとまりなくうねっていただけの触手たちが、一斉に静止した。
 それだけではない。丸かった触手の先が尖った針のようになり、あろうことかその先が、全て透花の顔に向いたのだ。
 ほんの一瞬、透花の顔が歪んだのが見えた。それは恐怖か、嫌悪か、それとも悲嘆か。
 そして彼女は口にする。自分を変革させる、その言葉を。

「……『変換』」

 その瞬間、全ての触手の針が、一斉に透花の頭を貫いた。



前のページ 次のページ
TOPに戻る


inserted by FC2 system