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第三十七幕「傷を抉る花(2)」


 破壊からしか創造は生まれない。創作の世界ではあまりに有り触れた、在り来たりなセリフだ。
 《アクター》は自分の存在を一度分解し、『変換』して《キャスト》へ再構築する。くだけて解釈するならば、 『変換』もその思想に基づいていると言えるだろう。
 そして雪野透花の『変換』は、まさしくその言葉を体現していた。何故ならその光景はまさに、自分を破壊している姿そのものだったのだから。
 透花の頭を四方八方から針が貫いた瞬間、彼女の体から力が抜け、だらりと腕が垂れ下がった。
 当然の帰結だ。頭を貫かれて生きている人間などいない。女性の手首ほどの太さもある触手が何本も突き刺さり、透花の顔はもはや原形を留めていなかった。
 しかし、彼女の身体は未だ倒れない。ボートはまだ動き続けているのに。雨も風も止んではいないのに。脱力しているはずの彼女の身体は、触手の翼に支えられ一ミリも押し流されてはいない。
 そしてなにより、彼女の頭部からは血が一滴も流れていなかったのだ。
 どろり。
 そんな音が、海を挟んで別のボートに乗っているはずの総一の耳に、届いたような気がした。
 頭部を貫いた触手の先端から滾々と湧き出す透明な粘液のようなものに、飲まれるようにして透花の体は溶けていく。
 やがて粘液そのものとなった『透花だったもの』は、直径三メートルほどの球状に落ち着くとそのままふわりとボートの甲板から浮き上がった。
『さぁ、僕たちはここでストップだ。あとは彼女に任せて、防衛ライン際の敵を撃つだけでいいからね』
 その睦月の声は冷静そのもので、それが逆に総一の中の不安を煽り立てた。
 『変換』にも《キャスト》にも、様々な形があるのは知っている。総一と綾人、そして弍見のもの。今まで総一が見てきたそれには、ほとんど共通点と呼べるようなものはなかった。
 しかし、あくまでそれらは『人間の姿が変換したもの』という大枠の中にいたはずだ。外見は人型を保っていたし、自分の意思を表現する術を持っていた。
 総一は敵の集団にゆっくりと向かっていく、宙に浮かんだままの『雪野透花だったもの』を見つめる。
 顔も、腕も、脚も、何もないただの球体。表面がわずかに揺らいでいるだけで、言葉を発することも、表情を変えることもできそうにない、ただの液体。果たしてアレは、まだ人だと呼べるのだろうか。
 睦月はアレを『彼女』と呼んだが、果たしてアレに雪野透花の意思はあるのだろうか?
『敵編隊と《無》。あと約30秒で接触。交戦を開始する』
 《無(インフィニティ)》。
 それが、雪野透花に与えられたもう一つの役割。もう一つの顔。
 《キャスト》としての名前だった。

   ●

 片瀬祐二は、君塚家のベランダで強い雨が降り続ける空を見上げていた。胸のポケットから取り出した煙草を銜え、安っぽいプラスチック製のライターで火を付ける。
 同時に息を吸い込むと、苦味のある煙が咥内を満たした。ライターをポケットに戻し、ガラス窓に背を預けて吐き出された煙は、ベランダに吹く強い風に浚われて消えた。
 大人に舐められないようにと始めたはずだった煙草は、今ではすっかり習慣になってしまっていた。それを続けるのは高校生である彼にとって痛すぎる出費のはずだが、もう簡単に止められるものではないのがその挙動一つからも見て取れる。
 煙草を始めたばかりの頃を思い出し、祐二は一人で苦笑いを浮かべた。
 高校に入学を決め、やっとのことで探偵の助手として仕事にくっついていくことを許されたあの頃。何をすればいいかも分からず、新しく会う人間の全てが自分より何枚も上手で、彼は途方にくれていた。そんなときに安易にも手を付けたのが、祐二が世話になっている男――この家の主でもある君塚陽介が良く吸っていた煙草であった。
 今考えれば的外れも甚だしい。ポーズだけの大人の真似事なんて、それこそガキのすることだ。それでも、三年も同じことをしていれば多少はサマになってくる。
「昔はこんなんじゃなかったんだがな……」
 携帯灰皿に灰を落としながら、祐二は一人ごちる。
 自分は変わってしまった。七年前のあの時から。
「あー、またこんなところで煙草吸ってるー」
 背を預けていたのとは逆のガラス戸が引かれ、顔を出したのは君塚弥生だ。
「中で吸うよりはいいだろ?」
 祐二がぶっきらぼうにそう答えると、弥生はぷんすかという擬音が付きそうな怒った顔で、
「煙草吸ってること自体が問題なんだってば! お父さんからも止めろって言われてるでしょ?」
 そう、たしなめる母親のような口調で言う。しかし祐二はしれっとした顔で、こう返した。
「いいや? あの人が止めろなんて言ったことは一度もないね」
 本当は『背伸びなんて十年早い』と殴られたことが遥か昔にあった。だがそれは、直接『煙草を止めろ』と言われたわけではないと祐二は解釈していた。ただの屁理屈ではあるが、事実ここ最近、陽一が煙草に突っ込んでくることはほぼなくなっていた。
 弥生は「もう!」とだけ言うと、諦めたように目線を落とし、一つ深刻そうなため息を吐く。
「珍しいな、お前がため息なんて」
 まるで自分が原因ではないかのように、祐二はそう言う。
 弥生が自己主張やからかいのための『ポーズ』でなく、ため息を吐くのは実は本当に珍しい。それでなくとも、君塚弥生は自分のマイナスな感情を人前で見せたがらない少女だった。そういったものを見せた場合、それは本当に隠せない程に落ち込んでいる時か、相手にこれから暗い話をする前フリかのどちらかだ。
 そういった真贋を一目で区別できるほどには、二人の付き合いはそこそこ長い。
「祐二君……」
 少し溜めた後――それでも言いよどむように、弥生は目線を落としたまま口を開く。
「高崎君が、祐二君に会いたいって」
 その瞬間、祐二の動きが止まった。指で挟んだ煙草の先から、一片の灰がベランダの床へと落ちる。
「思い出したっていうのか!?」
 一瞬後、鬼気迫る表情で問う祐二に、弥生は首を横に振った。
「そうじゃないみたい。その後も普通に私と話してたし……でも、どうやってか祐二君に辿り着いたんだよ」
「……会って……どうするって?」
「聞きたいことがあるって。もしかしたら、少しは思い出しかけたことがあるのかも。今は高崎君も戦ってるんだし……思い出す切っ掛けは、ちょっと前とは比べ物にならないくらいあるはずだよ」
「……で? お前は俺にアイツと会えって言ってるわけか。会って、ヤツの言うとおりに話をして来いと」
 弥生が祐二の顔を恐る恐る見上げる。その顔は、静かな怒気を湛えていた。
「来いとか……そういう強制じゃないけど……。でも、この間話したことが本当なら、祐二君に辿り着いた高崎君は説明を受ける権利があると思う」
「ねぇよ、ンなもん!」
 突然張り上げられた声に、弥生は肩をすくめる。
「アイツはな、知らないとか、教えてもらってないとか、そういうんじゃねぇんだ。『忘れて』んだよ! 勝手に、自分の都合で忘れやがったんだ! それを、こっちがわざわざ教えて差し上げなきゃいけない義務も権利も、あるわけがねぇんだよ!」
 祐二はハッとした顔をすると、怒鳴ってしまった自分を恥ずかしがるように弥生から目を逸らした。
 自分を落ち着かせるように大きく息を吐くと、目を逸らしたまま話を続ける。
「それに、お前だって分かってんだろ? アイツがもし俺の説明で全部思い出したとして、そうしたら今の生活は終わりなんだぞ? 今のまま、学校で仲良くオトモダチってわけにはいかなくなるんだ。それでも、お前はいいって言うんだな?」
「それは……」
 弥生は俯いたまま動かない。
 祐二は、これで弥生が諦めてくれると確信していた。この間連れてきた緑川という少女。弥生がこの家にまで踏み込ませるということは、彼女はかなり弥生から信用を置かれている友人なのだろう。少なくとも、祐二の知る中で今までにそんな相手はいなかった。
 弥生の高校生活が充実していることに、祐二は複雑な気持ちを感じずにはいられない。だが、だからといって自分が壊していいものではないとも考えていた。
 しかし――
「それでも、だよ」
 弥生の声は、力強い。
「それでも、私は祐二君にそうお願いする。今、このとき、この状況で『私』はそうする」
 見上げる目から、怯えは消えていた。
 片瀬祐二が従わざるを得ない目で、弥生は祐二を見ていた。
  
   ●

 《恐怖》は――異形の姿のままの高崎総一は、ボートの上で呆然としていた。そこは戦場だというのに、緊張感のカケラもなく立ち尽くしていた。
 結論から言ってしまうなら、そこでは戦闘など『起こらなかった』。
 彼は一度も敵を倒すことはなかったし、その必要もなかった。
 遥か遠くに浮かんでいるのは、透明な粘液の球体。《無》という名に変わった雪野透花は、静かな海の上で佇んでいる。
 そう、《無》の下には静かな海が広がっているだけ。その上には文字通り、何も存在していない。
 ほんの十分前。水平線を埋め尽くすほどにいた筈の《顔無し》の姿は、今はどこにも見当たらなかった。
 全てが《無》によって倒された――それでも一応話は付く。《顔無し》は体内の『核石』を破壊されると構造を保てず、粒子となって霧散してしまうのだから。
 しかし、そうではない。敵を一人で倒し尽くしていたのでは白城綾人と同じこと。それでは、総一が驚きに目を見開いている道理がない。
 それは、余りにも簡単な話。
 そこで行われたのは『戦闘』ではなかった。
 一方的な、ただの『捕食』だったのだ。
 攻防などなかった。駆け引きなどなかった。躊躇や憂慮などあるはずもなかった。
 『クレイマン』の放った『槍』は、《無》の身体に触れた瞬間に熔け粘液と化した。『マリオネット』の爪や牙は、彼女を傷つけることなく彼女と同化してしまった。
 《無》の放った数十本もの触手は、自らを『変えた』ときのように《顔無し》を突き刺し、それを粘液に変えると自らに取り込んでいった。
 ただ、その繰り返し。十分間、行われたのはそれだけのこと。
 豪雨の中、宙に漂う透明な球根が養分を吸い上げるように、百体以上の《顔無し》は一体も霧散することなく、《無》に吸収されたのだ。
 総一はその光景に圧倒されると同時。心の冷静な部分で納得をしていた。
 透花に聞いた、彼女は『女王の移し身』ではないかという疑惑。
 この光景を見た今、総一もその可能性を感じずにはいられない。なぜなら、《無》の能力とは完全に《顔無し》の上位であったのだから。
 総一の《恐怖》も、綾人の《白騎士》も、《顔無し》を倒すときには頭部の『核石』を狙う。いや、狙わなければならない。それは、そうしなければ《顔無し》を倒せないからである。他の部分をいくら破壊しようと、無機物を吸収し自己修復する。それが《顔無し》共通の能力なのだから。
 しかし、透花の《無》にはその必要がない。触手が肩に当たろうが脚に当たろうが、相手の攻撃が自分に触れようが関係ない。《無》は『核石』も他の箇所も等しく粘液へと変換し、自分の一部へと吸収する。
 それは、全ての《顔無し》を総括する『女王』としてのイメージそのものだ。
『怖いかい?』
 通信機から届いた睦月の声で、総一は思考の渦から引き戻される。
 だが、その問いに反射的に答えることもできなかった。
 『恐怖』の名を関する自分が、非日常を求め愉しんできた自分が、『怖い』と認めてしまうこと。それは自己の否定のように感じられて、総一は口を噤む。
 しかし、即座に否定することができないという総一の躊躇は、睦月に是と解釈させるには十分なものだったらしい。
『……僕も、彼女のことが怖い。《キャスト》と仕事をするようになって三年近くになるけど、彼女は明らかに別格に異質な存在だ』
 敵のいない海の上でたゆたっていた《無》が、ゆっくりとこちらへ引き返してくるのが見えた。
 それに合わせて、総一の乗っていたボートも緩やかに前に出る。他のボートたちは、防衛ラインで留まったままだ。
『彼女が《顔無し》かもしれないという話は、君も知っているよね? 僕はそれを全面的に信じているわけじゃない。でも、説得力のある仮説の一つだとは思っている。だから――』
 睦月が何を言っているのか、総一には分からなかった。なぜ今そんな話をしているのか。もう敵はいないはずなのに、あとは戻ってくる透花を回収して帰るだけのはずなのに、なぜ彼の声はこんなにも緊張しきっているのか。
 それはまるで、これからが本番だと言うかのように。
『高崎君。死にたくなかったら、躊躇しちゃダメだ』
 迫ってくる《無》を目の当たりにして。総一は今度こそ認めざるを得ない恐怖に襲われた。
 百体以上もの《顔無し》を吸収した《無》の身体。その大きさが、元と同じままなわけがなかった。遠くにいたときには気付かなかった、直径が五倍以上にも膨らんだ粘液の塊。それは三メートルほどの体長を持つ《恐怖》にも、威圧感を感じさせるには十分過ぎる巨大さだ。
(これが……あの雪野透花に、そのまま戻れるのか? 増えた分の質量はどうなる? いや、そもそも『変換』はそんなもの無視してはいたけど、これは流石に――)
 呆けたように上を見上げていた総一の耳に届いたのは、切羽詰った睦月の怒号だった。
『ぼけっとするな! 来るぞ!』
 その瞬間、急加速したボートが今いた場所を、上から何かが貫いた。
「なっ!?」
 銃弾のように放たれたそれは、《無》の放った触手だ。先を槍のように尖らせたそれが数十本。粘液の球体から伸び出ている。
「なんでアイツが俺たちを!?」
 そう口にしながらも、総一はそこまで驚いてはいなかった。
 鹿島の言葉。人型から離れた透花の姿。そして今の睦月の言葉。
 総一は自分の役割に、今更気付く。防衛ラインの死守などではない。そんなものは彼女の能力を考えれば、最初から必要がないに決まっている。
 なら、この雪野透花を止めることこそが、今回の自分の仕事なのだと。



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